メモ:最初期のラーメンの製麺法

日本でやっている手作りの中華麺の麺打ちには大きく2つある(もちろん例外もあるだろうけど)。

手延べ麺と切り麺。
生地の塊を延ばしては2つに重ね延ばしては2つに重ね、1本が2本、2本が4本、4本が8本、8本が16本……と延ばしていくやり方(といってもできあがった後に刃物を入れなければ「1本」なんだけどね)。「拉(ラー)」とは延ばすことで、「拉麺(ラーメン)」とは麺を手延べする「方法」を指す。これが「ラーメン」という名の由来という説もある。


手延べ麺(イメージ)

切り麺は麺をのし板の上で延ばし、それを刃物で麺の形状に切るというやり方。日本そばなどもこのやり方。麺棒でのばしたり、青竹などを使って延ばす「打麺」も切麺に入る。


切り麺(イメージ)

現在普及している製麺機は先日書いたように(「古本で手に入れた本3冊」)眞崎照郷氏が発明した製麺機を起源としており、これは切り麺の方法を機械化したものだ。
現在の製麺機の直接の先祖となる眞崎照郷氏の改良製麺機は1896(明治29)年に完成している。

で、ふと思ったのは、最初期のラーメンはどんな製麺法をしていたのかということ。

ちょっとした疑問だけど、一応本で確認したので、メモとしてここに記しておく。これによって特に読者に何かを主張したいわけではない。(^^;

日本で最初のラーメン店といわれる来々軒は創業1910(明治43)年。この時期にはすでに製麺機は存在しているので、選択肢の1つにはなったはず。ただし高価だったろうし創業当初から使うことはなかっただろう。

■来々軒

1910(明治43)年創業。
東京・浅草で創業した、日本初のラーメン店。大繁盛し、店主の日記には1921(大正10)年当時、13人のコックがいたことが記されている。正月には1日に2500人の客が訪れたという。

昭和5、6年あたりまで中国の手延べでしたが、だんだんとそれでは間に合わなくなって半手打ちになり、本当に全部が機械打ちになったのは、昭和10年頃じゃなかったかと思いますよ」(来々軒三代目、尾崎一郎さん。小菅桂子『にっぽんラーメン物語』より)

ここでいう「半手打ち」というのがよくわからないが、昭和5、6年あたりまでは手延べ麺であり、そこから昭和10年頃までの5年ほどの間に「延ばす」麺から「切る」麺に切り替わったということのようだ。

■店名不明(初代李彩の店)

「大正2、3年か5、6年頃」(1913~17頃)創業。
奇術師・初代李彩が来々軒の繁盛を見て、「あんなに儲かるなら」と同じ浅草で始めた店。「香港のコックに金使われて」5、6年で潰れたという。
その時分は、麺だって青竹を使ってやる式の中国の手打ちだろ。……」(二代目李彩さん。小菅桂子『にっぽんラーメン物語』より)
ここは切り麺だったようだ。「あんなに儲かるなら」と真似して近所で店を開いたのに製麺の仕方が来々軒と違っていたことは興味深い。つまり雇い入れる中国人の出身地、修得していた技術に依存していたということか。

■大貫

1912(大正元)年創業。
来々軒の味に感激した千坂長治が来々軒創業の2年後に神戸居留地で創業した、「日本人初」の中華そば店。「日本人初」とは恐らく来々軒を初めとする先行店は皆、中国人の職人を雇っていたことを指していると思われる。来々軒が閉店した今、現存する最古のラーメン店。

創業以来100年間、変わらぬ製法の【足踏たまご麺】
一般的な作業は次の通り
(1) 混ぜる・練る      (ミキシング)
(2) 伸ばす         (麺帯を形成)
☆ 踏込み
(3) 重ねる         (圧延)
(4) 切る          (製麺)
」(大貫本店のウェブサイトより)

創業当時から切り麺だった、ということだろう。
ウェブサイトを見る限り、現在は圧延、切り出しは製麺機を使っているようだが、これがいつ頃から導入されたのかは書かれていない。

■竹家食堂

1921(大正10)年創業。ただしメニューに拉麺(ラーメン)が載ったのは翌1922(大正11)年のこと。
大久昌治さんが札幌の北海道大学正門前に開いた「竹家食堂」に、王文彩さん(山東省出身)が入店しメニュー化された。

春の昼下がり、王は調理場で小麦粉に水を混ぜながら念入りに練りはじめ、それを両手で引っ張り、一本が二本に、二本が四本にとだんだん細く伸ばして、遂にそばほどのものにした」(北海道新聞社編『さっぽろラーメンの本』より)
竹家は開店後一年もしないうちに、拉麺愛好家が増えていき、王が引っ張って作る麺では間に合わなくなって、大正十二年に入って手動式製麺機を一台据えた。それまでは小麦粉の塊で寝せていたのが、製麺機を使うことによって、あらかじめ麺を作って寝かせておけるようになり、ますます腰の強い麺を出せるようになった」(同書)
竹家の麺は開店当時は手で引っ張る「拉麺(ラーメン)」の製法であった。だが店が繁盛すればそういつまでも手打ちというわけにもいかない」(小菅桂子『にっぽんラーメン物語』より)
まもなく父が大きな製麺機を買い、動力は人の手で、二人で力車を廻して麺を作りました」(竹家食堂創業者大久昌治さんの長男・陞(のぼる)さん。同書)
当時その製麺機は父親の昌治さんが横浜で探してきたという。札幌での中華そば製麺機の第一号である」(同署)

ここも当初は手延べ麺で、機械化することで切り麺に変更になったということのようだ。手延べ式の製麺機は存在しないので、当然の成り行きなのだろう。

■源来軒

1926(大正15)年頃?創業。
浙江省出身の潘欽星さんが自作屋台から創業。喜多方ラーメンのルーツと言われる。

大正の末から昭和の初期にかけて、福島県喜多方町で中華麺を扱う製麺業者などいるはずもない。なければ自分でやるしかない。打ち方は中国でやっていた青竹踏みでやろう。つまり竹竿を麺台の一方に固定させ、もう一方に自分の体重をかけて麺生地をのしていくという製法である」(小菅桂子『にっぽんラーメン物語』より)
潘さんが麺打ちで機械を使ったのはローラーだけ。天気にあわせて使うカンスイの量で生地の固さを加減し、練ってローラーにかける。かけるローラーの回数も天気と相談する。そして根気よく何度も何度もかける。これが腰を強くするこつという。…それを切る。切った麺は瞬時に麺台に広げ渾身の力を込めて自分の手でちぢれを出す。それを玉にするのも自分の手」(同書)

青竹を使った切り麺から始まり、途中から青竹部分をローラーに替えたと。


手延べによる麺づくりは労力がかかり、1回で作ることができる量も多くはない。そして何より高度な技術を必要とする。
これら初期のラーメン店でも、スタート時に手延べであっても最終的には機械製麺(切り麺)に落ち着いているようだ。
ラーメンが普及した後も手延べで麺づくりをしている店は切り麺派に比べて圧倒的に少数派だったと思う。
ただし手延べはデモンストレーションのインパクトがかなり強いので、ある時期までは「ラーメン」のパブリックイメージを担っていたようにも思う(機械製麺をしている図は、あまり絵にならない(^^; )。

手延べ麺も切り麺も、その手法は中国を起源としており、上記の店もおそらくは雇い入れた中国人の出身地や修業先によってやり方が異なっていただけだと思われる。
その意味では両者は「同格」(?)であるはずだが、切り麺は眞崎照郷氏の製麺機という大発明が現れたため、機械化されなかった手延べ麺こそ「古式ゆかしい、正統派の製麺法」と誤解されたのだろう。例えば……、

手打ラーメンのつくり方

めんの打ち方には大きく分けて2つの方法があるようです。1つは中国の主に北の方から伝わってきた方法です。小麦の粉をこねた塊の両端を手で持って引っ張り、次第に細いめんにしていく方法、もう1つは中国の南の方から伝わってきたやり方で、小麦をこねて平らにした後、めん台の一方の端に太い竹桿を固定させ、その竹桿に足をかけて体重をかけ、めん生地を伸ばし、あとは包丁で細く切ってめんにする方法です。
機械めんは、後者の方にヒントを得て小麦粉をこねる作業から伸ばす作業までも機械化して作っためんです。
つまり前者の方が手打ラーメンと呼ぶにふさわしいと考え、前者の方法によるめんの打ち方を紹介しました。

コピー食品研究会編著『ラーメンの秘密 ほんもの味をもとめて』より

この本については以前、「ラーメンの秘密」というエントリで紹介したことがある。
「機械めん」が切り麺の手法をヒントにして作られたものであったとしても、だから「前者の方が手打ラーメンと呼ぶにふさわしいと考え」るのはあまりに脈絡がない。機械を使わずに「手打」したいというだけなら、別に竹桿を使ったやり方でも何の不都合もないはずだ。
にもかかわらずこういうわけのわからない結論に辿り着くのは、「手延べ麺」と「機械麺」という並べ方をやらかし、「機械化されなかった手延べ麺こそ「古式ゆかしい、正統派の製麺法」と誤解」した結果だろう。機械麺の奥にある「切り麺」という手法が見えていないのだ。
あるいは「竹桿だろうがなんだろうが、とにかく道具を使うよりは使わない方が『手打ち』なんだっ」というのなら、論理としてはつながりそうだ。説得力があるかどうかは別として。

では『美味しんぼ』はどうだろう。
ここに登場するラーメン店も手延べ麺だ。


『美味しんぼ』2巻「中華そばの命」


『美味しんぼ』38巻「ラーメン戦争<5>」


上記のように、ラーメン店の中で手延べで製麺していた店はかなりの少数派だったと思われる。にもかかわらず『美味しんぼ』がラーメンといえば決まって手延べ麺を採り上げるのは、まずもって原作者のもつラーメンのイメージだろう。そしてもう1つ、『美味しんぼ』の体質に直結しているのだと思う。『美味しんぼ』のやり方は、あるメニューに対してそのルーツを辿り、それを「正統」としてそこから「本来あるべき正しい姿」を提示するというものだ。
そういうやり方に、「手延べ麺」こそあるべき姿、という考え方は↑の『ラーメンの秘密 ほんもの味をもとめて』の著者と同じく、非常にしっくり来るのだろう。
『美味しんぼ』の場合、「切り麺」も射程に入れてはいる。


『美味しんぼ』8巻「スープと麺(中編)」

ただしこれは冷やし中華の回であり、しかもこの製麺が行われているのはラーメン店ではなく本格的な(回るテーブルのある(^O^))中華料理店だ。ラーメン店で行われる製麺として想定されているわけではない。

※関係ないが、1冊丸ごとラーメンを採り上げた『美味しんぼ』38巻「ラーメン戦争」が酷い内容になったのは、このやり方(あるメニューに対してそのルーツを辿り、それを「正統」として……)をラーメンにも適用しようとして泥沼にハマってしまったように見える。ラーメンはこの手法に一番馴染まないメニューだと思う。


結論めいたものはない。メモなので。


余談:
しかし『どっちの料理ショー』みたいな作り方すりゃ、そりゃうまいよね。
この冷やし中華の回(「スープと麺」)は、『美味しんぼ』的手法が典型的に現れていると思う。


参考画像

ここで出てくるのは「本来、”冷やし中華”というものはこうだった」というものですらない、これまで世界になかったナニモノカ。ジャンクフードに『美味しんぼ』的手法を適用するとたいていこうなる。で、空中戦として山岡と海原の「正統」合戦が始まる。でもそんな「正統」なんて空想に過ぎないんだけどね。
この回の場合、「冷やし『中華』」という名前からたぐっていくしかなかったってことなんだろう。こういうとっかかりがあると『美味しんぼ』の場合、こうなる。


もひとつついでに。コピー食品研究会編著『ラーメンの秘密 ほんもの味をもとめて』にはこんな記述がある。

 製めん機がなかった時代ラーメンはすべて手打によって作られていましたが、製めん機の普及に伴って今では手打ラーメンを見ることがほとんどなくなりました。日本の各地で先代の技を受け継ぎ細々と手打ラーメンは生き続けています。そこで数少ない手打ラーメンを今でも続けている職人の方の話をまとめてみました。

無条件で「手打ち」の方がいいという無邪気さもアレだが、それはそれとして、「製めん機がなかった時代ラーメンはすべて手打によって作られていました」というのはどうなのかな。

上記の通り、眞崎照郷氏による改良製麺機は1896(明治29)年に完成しており、日本初のラーメン店である来々軒の開店はそのずっと後の1910(明治43)年だ。

本当にいい加減な本だと思う。


突然食いたくなったものリスト:

  • 若鮎

本日のBGM:
Rise and Fall /HELLOWEEN



 


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