困難が技術を育てる

 この↓動画を見て、ちょっと衝撃を受けた。(^O^)

 なんじゃこの作り方。(^O^)

 英語喋ってるし、フォーク&スプーンだし、恐らく(日本を経由していない)中国から直接伝わったチャーハンじゃないかと思う。

 よく見ると、どうやらこれは長粒米のようだ。

 ググッて見つけた中国の米市場のレポート(「4.米 (1)市場実態 ① 生産と販売の動向」)によると、「華北を除くと長粒米が多く食されているようである。」「特に、華南では長粒米をチャーハンで食べることが主流で、日本米のような短粒米にはなじみが少ない。」「チャーハンには日本米より長粒米の方が良い。」「輸入はほぼタイから(61.48 万トン、94.58%)である。タイ米には、独特の香りがする種類もあって中国市場では人気がある。またタイ米は、チャーハンに適しているという点も人気の理由となっている。」などとある。
 また、私自身中国に旅行した時のことを思い出すと、確かにチャーハンに使われていたのは長粒米だった(広東)。

 つまり、中国の中華料理におけるチャーハンというのは基本的に長粒米で作るものなのだと。

 私たちがチャーハンを作る時に一番気を使うというか、「完成形」として思い浮かべるのは「パラパラのチャーハン」であって、それに向かっていろいろ工夫するわけだけど、長粒米を使えば↑のようなふざけた(^O^)作り方でもそれなりにはパラパラになってしまう。

 私たちは粘度の高いジャポニカ米でこの長粒米のパラパラを再現しようとするから、あれだけのテク(鍋の熱し方、油の量、玉子の量、白米の処理、白米投入のタイミング、鍋の振り方、混ぜ合わせ方……etc.)が必要になる。日本人がチャーハンを調理する時、その行程のほとんど全てが「パラパラ」を実現するために費やされているといっても過言ではなかろう。

※「ベトベト」なチャーハンに仕上がる例はたくさんあるが、たいていの場合それは「失敗」「ヘタクソ」と判断される。つまり「ベトベト」チャーハンは「あるべき姿」ではないと認識されていて、作った本人も「できればパラパラにしたい」と思っている、というのが多くの日本人の感覚だろう。

 「インディカ種 – Wikipedia」によると、長粒米であるインディカ種は「世界で最も多く作られている栽培品種群で、世界のコメ生産量の80%以上を占める。日本は例外的に、インディカ種の栽培がほとんどない国である」ということだそうだ。

 つまり日本人は「チャーハンに適した」長粒米という選択肢を、世界で「例外的に」持っていない(いなかった)国民だったのだと。

※2017/06/22注:当時はてブで指摘いただいたが、朝鮮半島もほぼ短粒米のみらしい。

 なるほど。

 どうやらチャーハンの「パラパラ」を実現するためにここまで苦労を強いられる(^O^)のは、世界で日本人くらいのようだ。(^O^)

 ……というか、長粒米で作ってる人たちはむしろ「パラパラ」チャーハンにさほど執着がないように思える。少なくともYouTubeの「How To Cook Chinese Fried Rice」みたいなので出てくる動画を見る限り。

 ↓は極端な例(理解不能)だとしても(^O^)、それでもこれらの人の「fried rice」の中に、「パラパラ」という価値観は微塵も伺えない。

 なんというか、本物の女性よりもニューハーフの方が女性的であるというか、最初からそれなりにパラパラである長粒米チャーハンにとっては「パラパラ」なんてのはたまたま身についていた属性に過ぎないのかもしれない。

 勝手な予測としては……。

  1. 中華料理では長粒米でチャーハンを作るのが主流。
  2. 日本人がそれを手本にジャポニカ米でチャーハンを作ってみる。
  3. ベトベトになる。
  4. その「パラパラ」感をジャポニカ米で実現するために工夫しまくる。
  5. おーやればできるやん。やっぱりチャーハンは「パラパラ」じゃないと。
  6. 長粒米だと無頓着にやってもそれなりの「パラパラ」は当たり前なので、中国の中華料理ではあえて「パラパラにしなきゃ」という価値観はない。(パラパラじゃないものであっても、それはバリエーションとして許容する)

 みたいなことになってるんじゃなかなあ、と。

 だからおそらく、同じ中華料理の料理人でも、日本の店のシェフと中国の店のシェフとではチャーハンの作り方は随分違うんだと思う。中国系アメリカ人とかになると、なおさら。(^O^) チャーハンの「パラパラ至上主義」は、恐らく日本だけの価値観だ。

 輸入文化を日本に土着化する時に、その間をつなぐ「アダプタ」として機能した部分、つまり「本家」にはなかったローカルな部分が、むしろその品目の「良さ」「不可欠な魅力」として認識される……。それは何もチャーハンの「パラパラ」だけじゃないよね。餃子の皮の「パリッ」だってそうだし、あるいはそこまで強くないにしろ、ビールの「泡」だってそうかもしれない。

 それらが庶民にここまで普及するというところに、日本人の飽くなき欲望が見えるじゃないか。(^O^)

※これはあくまでも中国では「パラパラ」至上主義がない、という前提に立っているので、そうでなければ全く崩れてしまう脆弱な論理です。(^O^)

 でね。
 となると。

 結局のところラーメン屋の3大メニューであるラーメン・チャーハン・餃子というのは、結局それぞれ日本で独自の発展を遂げた「日本料理」なのであって、正統的な中華料理とは程遠いわけだ。

 ラーメン屋のルーツはいろんな説があるけれど、(戦前にももちろんあったものの)爆発的に広がったのは「戦後、中国からの引き揚げ者が見よう見まねで修得した」ものが直接のルーツだと見ていて、本当は中華でないからこそむしろ意図的に「中華」を僭称した(丼に雷紋や双喜文入れてみたり)のだと思う。つまりこれらは「自称」中華料理に過ぎない。そりゃまあ、真似したんだから「ルーツ」と呼んで呼べないことはないけれど、あまりに遠い祖先というか、随分と姿が違ってしまっている。
 『美味しんぼ』も結局、これに躓いた。
 これはきっと、マンガのルーツを鳥獣戯画にもってくるようなもんで、かろうじて

「いやまあそれはそうかもしれませんがね……」

 という微妙な納得には至るものの、そこから、

「だからマンガというのは○○でなくてはいけない」

 みたいな話をされると、

「いや、それはちょっと違うんでない??」

 と言わざるを得ないんだな。そしてこれをやってるのが『美味しんぼ』。(^O^)

 「ルーツを辿ってそこから演繹」という『美味しんぼ』の常套手段は、普通の、ルーツのはっきりした料理には有効だろうが、こういう「正体不明」の料理にはどうしても不向きなんだよなあ。

 ……いやまあ、「パラパラ」至上主義だからチャーハンは日本料理なのだという論理展開は我ながらさすがに無理がある。(^O^) ただ、一般的なラーメン屋のチャーハンに、中華をルーツとしなきゃいけないような食材は1つもないんだよなあ(だってラーメンの具だもん)。↑に書いたように、出来上がり目標は長粒米の炒飯だったのだと思うが、その手法は日本で(必要に迫られて)独自に開発されたものなんじゃなかろうかと。

 それとも、華北でジャポニカ米を炒飯にするために考案された、純中国産の技術なんだろうか。
 いや別にそれでもいいんだけど。
 いずれにせよここまでの「パラパラ」至上主義は日本独特の価値観だと思う。

突然食いたくなったものリスト:

  • 玉子サンド

本日のBGM:
I.B.W /爆風スランプ






5 個のコメント

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  1. DATE: 09/21/2009 10:57:25 AM

    >>この↓動画を見て、ちょっと衝撃を受けた。(^O^)

    これはひどい炒飯ですね(笑)。何というか、食に拘りのない民族の家庭風景と謂う感じですね←偏見

    仰るとおり、世界的に視て「炒飯」と謂えば普通は長粒種を炒めたものを指すわけで、それならどんなやり方をしてもパラパラになるのは当たり前の話ではありますね。これは逆に謂えば、日本人は炒飯でさえも短粒種の米で喰いたがり、長粒種と謂う選択肢がないと謂うことでしょうね。

    また、炒飯が日本に根付いた頃の時代性を考えると、国内で長粒種が栽培されていないことは勿論、外米の輸入もほぼなかったわけですから、どうしても炒飯に不向きな短粒種で炒飯らしきものを作る必要もあったわけです。

    しかし、昔の羽釜やガス炊飯器で炊く飯と謂うのは、現在の基準で考えるとかなり柔らかめなのが標準の炊き上がりだったはずですから、それでパラパラの炒飯を作るのは相当難しかったんじゃないかと思います。冷やご飯を使って水気を飛ばしたり、いろいろ工夫したんじゃないですかね。

    ただ、パラパラ・ベトベトと一口に謂っても、米の粘り気や水分だけで決まる食感ではないので、長粒種でもベトベトなのは好くないと考えられている可能性はありますね。十分に熱い油が一粒一粒に廻ることでパラパラな食感が得られるわけで、ベトベトと謂うのは油の温度が下がることで油の粘りや臭みやしつこさを感じると謂うことでもあります。そう謂う意味では、本場中国でも或る程度「パラパラ」な食感は大事にしているんではないでしょうか。

    また、「炒飯はパラパラでなければならない」と謂うことが改めて言われ出したのって、実は四半世紀くらい前なんじゃないかと謂う気もします。どうもオレの子供時代にはそう謂う価値観はなかったんじゃないかと謂うような記憶もあって、高校時代か大学時代になって「家庭料理の炒飯は不味い」と謂う声が多いと謂うような話が謂われるようになって、それは店の炒飯のようにパラパラになっていないからだ、みたいな流れだったんではないかと記憶しております。

    なので、まず調理する側が否応なく短粒種で長粒種のような食感を再現すると謂う課題に直面し、それを何とかクリアすることで日本式の炒飯の作り方が確立して各地に伝播していった。一方、従来から定式のない残り物料理としてあった「焼き飯」が「炒飯」と同一視されるに及んで「焼き飯」と謂う雑駁な名称が廃れていき、同じ炒飯なのだから、と店の炒飯との食感の比較から「何故ウチの炒飯は不味いのか」と謂う家庭料理における問題意識が発生した。そこで、第何次かのグルメブームの際にそのティップスとして「パラパラ」がマスコミで強調されるようになって、炒飯パラパラ至上主義が一般的認知としても確立された、と謂う流れになるんじゃないでしょうか。

    >>餃子の皮の「パリッ」だってそうだし

    これは、不思議なことに餃子だけは本格的な中華料理店や中国料理店では焼き餃子が出ないですよね。厳密に言えば、汁麺も「ラーメン」とは呼べないような、それでいて本場の汁麺とも微妙に違う「中華料理店風ラーメン」と呼ぶしかないものが出ますが、焼き餃子を出す中華料理店と謂うのはかなり珍しい部類に入るでしょう。オレが識っている範囲だと、お茶の水の山の上ホテルの「新・北京」くらいでしょうか。焼き餃子があると謂うので珍しいから注文した覚えがあります。

    • 摸捫窩 on 2017年6月22日 at 6:05 AM
    • 返信

    DATE: 09/22/2009 01:30:00 AM
    こんばんは。ご無沙汰しております。

    >ラーメン・チャーハン・餃子というのは、結局それぞれ日本で独自の発展を遂げた「日本料理」なのであって(hietaroさん)

    >本格的な中華料理店や中国料理店では焼き餃子が出ない(黒猫亭さん)

    私はかつて留学生の友人と中国を旅行した時に、北京の自宅に招待されたことがあります。
    その際に数種類の自家製の餃子を御馳走になったのですが、全ていわゆる水餃子でした。そして、焼き餃子はほとんど食べないと聞いたように記憶しています。

    一方、最近瀋陽に旅行する機会がありまして、かの地の餃子店で食事をした時には、蒸し餃子・水餃子・焼き餃子の何れもがありました。もっとも、その店は大きなお店だったので、外国人観光客向けのメニューなのかも知れません。

    という訳で、何と言いますか、私はむしろ日本で焼き餃子が独占的に普及したかを不思議に思っています。

    炒飯の話題にならなくてすみません。

    1. DATE: 09/22/2009 10:55:50 AM
      >摸捫窩さん

      仰る通り、本場中国ではほぼ水餃子がメインで、それに蒸す・揚げるなどの調理法がちょっと加わる程度の割合のようですね。日本の焼き餃子に関しては、われこそは元祖なりと謂うような話が諸説あるようですが、戦後に満州からの引き揚げ者が始めたと謂うことでは見解が一致しているようです。

      以前TVで見たドキュメンタリーでは、うる覚えなのですが、特定の人物が大陸から日本に帰ってきて餃子を広め、鉄の鍋で焼き目を附けてから大量の水を注いで蒸し焼きにする調理法を考案したことになっていましたが、ウィキによりますと、少数ながら中国でも残り物料理としての焼き餃子が存在して、それを参考にしたのではないかと謂う説があります。

      http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A4%83%E5%AD%90#.E4.B8.AD.E5.9B.BD.E3.81.A7.E3.81.AE.E9.A4.83.E5.AD.90

      モノ自体としても、中国の餃子は水餃子が主流である関係上、皮が厚めに出来ていてモチモチした食感ですが、日本では薄皮のものが中心で、焼き目がパリッとしていて白い部分がモッチリしている食感が重視されます。本格的な中華料理店で出される餃子と餃子専門店やラーメン屋で出る餃子は、モノ自体が違うと謂うことですね。

      で、本格的な中華料理店でも、その実録のところは日本向けにかなりアレンジした料理を出しているわけで、炒飯なんかも長粒種で作った炒飯なんてのは本格中華料理店でもまず出て来ないわけですね。まあこれは米の流通の問題もあるんでしょうが、結局「本格的な中華料理」と謂っても大半の料理は日本人向けにアレンジをしていると謂うことだと思うんです。

      だったら餃子だって、日本人は焼き餃子が好きなんだから出すところがあっても不思議じゃないんですが、点心としての蒸し餃子や揚げ餃子が一番主流で、焼き餃子を出すところは珍しい。かと謂って水餃子が必ずあるわけでもない。なので、「焼き餃子を出さない」と謂うのは、日本の中華料理店においては、町場のラーメン屋との差別化を打ち出す「本格的中華料理店」の記号みたいな感じになっているのかな、と思うんですよ。

    • zorori on 2017年6月22日 at 6:05 AM
    • 返信

    DATE: 09/22/2009 12:44:49 PM
    職場の中国留学生のアルバイトに、焼き餃子を料理してもらったことがあります。

    確かに、焼き餃子は少ないと言ってました。また、にんにくではなくてニラを使うとのこと。それから、餃子はお祝いの料理に近くて日常的に食べることはあまりないとも。中国でも地域によって違うかもしれませんが。

    そう言えば、私の母は大連からの引揚者で「水餃子はうまかった」と話していました。

  2. DATE: 09/22/2009 02:54:54 PM
    >みなさん
     
    こんにちは。
     
    >焼き餃子
     
    私の焼き餃子の認識というのはWikipediaのいう
     
    >日本で一般の日本人が食べられるようになったのは、満州で作り方を習得した人たちが戦後日本で作りだしてからであり、薄目の皮を使い、満州で鍋烙餃子と呼ばれた焼き餃子が主流となった。大衆的な日本人向けの中華料理店やラーメン店などのメニュー、家庭の手軽な惣菜として定着している。
     
    というあたりだろうというところで、中国でも東北部、旧満州付近のマイナーなメニュー、あるいは家庭料理がルーツなんだろうなと思っています。特にキャベツやニンニクを使用するのは日本独特で、日本で入手可能だった素材を使ったんだろうなあと。(^O^)
     
    本格中華料理屋で、(日本人の嗜好に合わせて)「焼き餃子」を出すところが意外と少ないのは、どういうことなんでしょうね。これは現場の方に聞いてみたいなあ。
    勝手な予測としては、水餃子は皮を食べる料理(広い意味で麺料理)であって、それをそのまま焼けば焼き餃子になるというものでもないので、もし「焼き餃子」を出そうとすれば、水餃子とは全く別の仕込み(皮も具も)が必要になってしまう。その手間と「焼き餃子」の必要性を天秤にかければフルイにかけられやすいのではないかなぁと。
     
    >パラパラ至上主義
     
    恐らく長粒米チャーハン圏では、「パラパラがいい」ではなく「ベトベトはイヤ」あたりの感覚なのではないかなあという勝手な印象を持っています。指向性として日本人ほど「パラパラのベクトルがはっきりしているわけではない、みたいな感じ。
     
    もともと「焼き飯」という非常にあいまいなメニューが家庭料理として存在していて、それが「炒飯」の普及によって目指すべき方向性が示され、最終的に「パラパラチャーハン」に統合されたという黒猫亭さんの指摘は、ありそうな話だと思います。
    原始焼飯文明が、より洗練されたヒッタイト炒飯文明に駆逐された、という感じですね。(^O^)(^O^)

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