落語だって「ストーリー」だ。フィクションであれノンフィクションであれ、ディテールには話に入っていける程度のリアリティが必要だと思う。
たとえば「大阪の落語は(東京の落語に比べて)理屈っぽい」とはよく言われる。
これ↓は上方落語の至宝(^O^)、桂米朝が語った、東西の落語の違いの一部。
……大阪落語というのは案外これが、リアルなんですな。非常に理屈っぽい。 毎度私、書いたり喋ったりしとりますが、こっちで「貧乏花見」、東京では「長屋の花見」と、こういう。 あれなんかでも東京(落語)ならいきなり大家さんが出てきて、 「ああ、長屋の者みんな集まれ」 玉子焼きとカマボコ、ありがたいと思って見たら玉子焼きの方はタクアンでカマボコは大根が切ってある。まあそれだけで押し出すんです。 ところがこっち(大阪落語)はそこに行くまでに、ちゃんと一悶着あるわけですな。 「雨が上がったなあ」 と、こう長屋の連中が言うところから始まる。 「雨が上がるとぞろぞろ人が出だしたが、ありゃどこに行くねん」 っちゅうわけで、朝雨が降ったために、その日暮らしの長屋の連中さん、みな長屋に、出そびれておるんですな。せやさかいに「ひとつ揃うて行こか」という設定ができるわけで。いきなり大家さんが「今日は花見に行く。仕事休んで花見に行け」なんか言うたら「日当なんぼ出す?」って言いかねんような連中で。 「蛇含草」というあの餅を食う話。 こっちの大阪の考えは理屈っぽい分ちゅうと、羽織1枚ちゅうのはおかしい、着物も着てるやないかと、襦袢も着てるやないかとこうなるわけなんですな。蕎麦が着物着てたっちゅうならわかるけども、一番上が羽織やさかい言うたかて着物もあるはずやてなことを言う。 溶けてしまってるということを見せるためにフンドシ一本の上から麻の甚兵衛を一枚ひっかける夏のことにしてあって、体が溶けたら餅が甚兵衛を着てたというので、非常に理屈が通るんでんな。妙に理屈っぽい。で、なんでまた夏に餅があるかということにも、ちゃんとこれまた理屈がつけてありまして、理由をちゃんと考えてある。 どっちがええ悪いと言うんやなしに、そういうふうに大阪の噺は非常に理屈っぽいんです。この理由はまあ、私はこの大阪の芸の根底に浄瑠璃というものがあるさかいに、浄瑠璃というのは非常に理屈っぽいリアルな芸ですので、あれの影響やと思うんですが。…… |
ここでいう大阪落語(上方落語)が「理屈っぽい」というのは別に、屁理屈を並べ立てるとかやたら難しい話をするという意味ではなく、噺がそういう展開になる「理由」「必然性」をちゃんと提示する、という意味だ。
これは東西のおおざっぱな特徴として挙げられているが、もちろん東京の落語に理屈っぽさがないわけでも、大阪の落語が厳密きわまりない、というわけではなく、そこはやはり程度問題というところ。
以前、「らくだが死んだァ!?」で数多くの噺家の「らくだ」の一部を書き起こして並べてみたことがある。
いつもその乱暴狼藉に悩まされ、「殺しても死なない」ような「らくだ」(あだ名)が死んだことを知らせに来た屑屋に、周りの人間がどういう反応を示すかというところ。
これを「らくだが死にました」の一言で受け入れるのか、「いやいや自分で確かめたのかあいつは殺してもしなネェぞ」と疑うのか。
こういうのはやっぱり、その登場人物を自分に置き換えて、どうするかという基準で考えてしまう。
私はやはり、信じたいけどそんなに簡単に信じていいことなのか、一度喜んでヌカ喜びに終わるのはイヤだと一度疑うのが自然な流れのように思う。
そういうストーリーの「流れの自然さ」というか「不自然でなさ」というか、そういうのもまた、ここでいう「理屈っぽさ」と根底を同じくしているのだと思っている。とはいえこれは東西の差のような話ではなく、噺家自身の個性、そして聞き手の個性によるところが大きいようにも思う。
さて。
NHKの「超入門!落語 THE MOVIE」という人気番組がある。
落語は1人で何人もの人を演じる芸だ。これを、古典落語の音声だけを流して、それにアテぶりをしながら実際に俳優に演じて映像化しようというものだ。
もちろん時間的な制約もあるのでいろいろ端折られたり変えられたりしているところはある。しかしなかなか面白くてよく見ている。
この中で「理屈」という意味でとても気になった箇所があった。
柳家喬太郎が演じる「井戸の茶碗」というネタ。
これを実際に映像化した方は、ここらへんで見られる。⇒●
私はエスカレートしていく話が好きで、このネタも好きなネタの1つだ。
「井戸の茶碗」に限らず、「はてなの茶碗」「猫の茶碗」など、「茶碗」がつく話はなぜかみんな面白い。「猫の茶碗」はエスカレート話ではないけどね。
で、この話の何に引っかかるのかというと。
非常に正直な侍が2人出てくるこの話(実際にはこの噺は「細川茶碗屋敷の由来」という講談が元になっているという)。話を進める上で絶対に引っかかるところがある。
屑屋の清兵衛はどうして50両、150両のカネをネコババしないのか?
天秤棒を担いで毎日紙くずを集めて回る屑屋風情の商売では絶対にお目にかかれないお金だ。比べるのもちょっと変だが、「千両みかん」で番頭が、「13歳からお世話になって来年、別家させてもらえる。その時にもらえるお金がせいぜい50両」と言っている。
そしてこっちは本当の50両(150両)だ。みかんじゃない。(^O^) 屑屋がこのままネコババしても、「まあそうするわな」となるのに充分な大金だ。
しかしこの正直な侍2人の話が成立するには、2人の間を大金を持って自分の懐に入れもせずにただただ橋渡しをしてくれる人物がいないといけない。
これを解決するためにはおそらく、清兵衛がネコババできない理由を作るか、それとも彼がネコババなんか考えない人物であるか、どちらかの設定が必要になる。
そこで清兵衛は仲間内から「正直清兵衛」と呼ばれるほどの、曲がったことが大嫌いな筋金入りの正直者だという設定がなされる。つまりネコババしない理由を、この噺では「状況」ではなく彼自身の個性の発露としたわけだ。
そして彼が屑屋という日銭稼ぎの仕事で、彼にとってそのお金(50両、150両)があまりに高額だからただの正直者くらいではいけない。その誘惑に負けないくらいの「キョーレツな正直者」としなくてはいけない。
柳家喬太郎は演じないが、例えば古今亭志ん朝など多くの噺家が、清兵衛について「曲がったことが嫌いだからタバコも吸わない(キセルは先が曲がってるから)」「牛の角も嫌い」「曲がること自体がイヤなので、本当は路地も曲がりたくない」といった極端なエピソードを交えてその「異常なほどの正直さ」を話の冒頭で強調する。
さらに、本来、屑屋は紙屑だけを集めていたのでは儲からず今のリサイクル業のように中古品を引き取って転売することで儲けるのだが、清兵衛は目が利かないため、安く引き取ってしまって客に損をさせるのもイヤだし高く買ってしまって自分が損をするのも面白くないということで、屑ばかりを集めていることになっている。つまり馬鹿正直で、しかも欲もそんなにないのだと。
そのくらい、屑屋の清兵衛が徹底した正直者であることはこの話を支える大きな前提であるはずなのだ。これがなければ清兵衛がこのカネをくすねずに侍の間を右往左往する理由がつかず、この噺は成り立たない。
ところが、「超入門!落語 THE MOVIE」の、いや柳家喬太郎の演じる清兵衛は、冒頭で「正直清兵衛と申しまして、まことに曲がったことが大嫌い」と触れながらも、ストーリーの中盤になると若い方の侍、高木が
「仏像は買ったがカネは買った覚えはない。元の持ち主に返してもらいたい」
というのに対し、
「よろしいんじゃありませんかねえ。御浪人はこのことご存じないんですよ。買ったあなたのものですよ」「私ねえ、あだ名が正直清兵衛ってんですがねえ、私が御武家様だったら……もらうなあ」
と言ってしまう。悪い顔をして。懐に収める仕草までして。そして、
「お前は悪い顔をするな。なぜお前が正直清兵衛だかさっぱりわからんな」
「自分の欲望に正直な清兵衛なんでございます」
などと返事をさせる。ここで1つ2つ笑いは取れるのだけどね。
私はこれに引っかかってしまう。
もちろん喬太郎師匠にも考えがあってこういうキャラ作りをしているのだと思うが、その意図は私にはわからない。
この発言で、清兵衛という人物の性格はまったく支離滅裂に見えてしまう。
この、「自分ならもらう」と言い放ち、「自分の欲望に正直」と宣言する一面識しかない屑屋に何の疑問も持たずに50両という大金を預ける侍というのはやはり不自然という他ない。
この時点で浪人は自分が売った仏像から大金が出てきたことは知らない。屑屋は浪人には何も告げず高木には「浪人は喜んで受けとった」といえばそれで逐電すらせずに50両をネコババしてしまえる。
そうなるともう、この話は破綻しちゃうじゃないか。
落語に限ったことではないが、たとえそれが奇想天外なストーリーだったとしても、その分そのディテールはリアリティがないといけないはずだ。それがあるからこそ話が自然に頭に入ってくる。
古典落語の特徴の1つは、多くの噺家によって演じられていて、演者も観客もストーリーを知っていることだと思う。にもかかわらず観客はそれを初めて聴くように鑑賞する。これは非常に大事で、噺家は毎回、その話を初めて聴いた人でも自然に話に入れるように話すべきだろう。多分それが噺家が身につけるべき技術だろうし、それの完成が「名人」なんだろうとも思う。
もちろんメタな視点での話もあっていいとは思うが、それはまた別の話だ。
その噺の登場人物がどういう人物で、そしてその時どう振る舞うのが自然か……。
古典落語というのはそれこそ誰もが、何度も、話す噺だからこそ、その噺について考え続けその噺を1つの完成に近づけるのが噺家の役割であるように思う。
中島らもはこんなことを言っている。
「シャボン玉ホリデー」や「ゲバゲバ90分」で育った僕には、「コントは消えもの」という感覚がある。しかし一方では、なぜコントだけがそれこそシャボン玉のような消えもので、古典落語は同じギャグを何百回くり返しても許されるのか、といった怒りもある。 |
古典落語にそれが許されるのは、まさに、噺家のその研鑽があるからこそではないかと思う。
古典落語は観客も演者もストーリーを知ってるから、多少不自然でも気づかないこと/気にならないことがあるだろう。つまりさらりとやろうと思えばそれもまたいくらでもできる。
実際、客が実際そこまで気にしているのかというものあるはずで、そんなリアリティよりも話のリズムの方が大切だという客もいるだろうし噺家もいる。それもまたスタイルでありそれはそれこそ米朝の言うとおり「どっちがええ悪いと言うんやなしに」ということなんだろうとは思う。落語にとってリズムというのは非常に大切な要素だ。
私自身、こういうことは気になるというだけのこと。
立川志の輔の「井戸の茶碗」では、どうしてもカネを受けとらないという浪人に屑屋がキレるシーンが挿入されている。(^O^) 屑屋はこう言う。
あのねえ……、もうこうなったら言わせてもらってよろしいですか。ええ。屑屋風情がねえ、お侍様に向かって物を言うというのはねえ、命がけですよ。ねえ。命がけでも言わせてもらいますよ。なぜならば私は高木様と千代田様のお宅を、この分ですと毎日毎日……そのうちに疲れ果てて死んでしまうんです。どうせ死んだと思って言わしてもらいますよ。お二人様、正直でけっこうでございます。本当に正直な方でございます。あなた方のような方が、あなた方のような方が天下を取っていただければ私も嬉しいと思いますが、思いますが、その正直も過ぎると……、辛うございます。それはあなた方は気持ちがよいでしょう。「向こうへ持って参れ」「わしは受け取れん」……その間懐に入れて落とさないように歩いている私の姿を、一度でも思い出したことがあるのですか!? 馬鹿正直もほどほどにして下さいな! 斬るなり何なりして下さい! |
これが志の輔の創作部分なのか、あるいは先人にそういう工夫をした人がいるのかは知らない(多分志の輔の創作だと思うんだけど)。しかし少なくとも、2人の間に立って清兵衛が(大金を持って)右往左往していること自体に言及した噺はこの志の輔版でしか聞いたことがない。
ここには清兵衛の「正直清兵衛」であるがゆえに馬鹿正直に伝達役を引き受けてしまっている自分へのもどかしさと、そしてそれに輪をかけて馬鹿正直な2人の傍迷惑さ、さらにはこの時代に屑屋が侍にこういうことを言うのはどういう結末が待っている可能性があるのか……といった演者の問いと答えが表されている。「この噺は一体どういうことなんだ? 清兵衛はどういう人物で、この時、どういう気持ちなんだ」と真剣に向き合った志の輔の1つの答えだ。もちろんこういうものに「正解」はないにしても。
柳家喬太郎が噺と向き合っていないと言ってるわけではない。まったくない。彼の解釈が私には理解できない、どうも引っかかってしまう、という、だたそれだけのこと。
志の輔版「井戸の茶碗」では、その後、浪人の娘を嫁にもらってくれと伝えられた若侍・高木の態度がまったく気に入らないので(^^;、志の輔版が好きというわけでもない。どれがといわれれば志ん朝版が今のところ一番しっくりくるが満足しているわけではない。
そういうディテールにこだわってみると、わざわざその設定にした噺家の工夫が見えたりよく練られた噺だと感心したりすることが多いという話。
そしてそういう細かなところで自分と合う噺家を見つけるのが、落語の楽しみの1つなのかなあ、と思っている。
突然食いたくなったものリスト:
- 旅館の朝ご飯
本日のBGM:
The Sound Of Silence /HEIR APPARENT
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