«

»

とんかつを巡る2つほどの疑問

 これは世間一般の話ではなく、ただ私自身が疑問……というか知りたいと思ったことなのだけども。
 
1)とんかつのつけ合わせにキャベツの千切りがついたのはいつからか
 
 以前、「野菜が「安全」だった時期というのは、いつですか?」というエントリを書いた。
 1928(昭和3)年にロンドンに留学した経験を持つ中谷宇吉郎は、「サラダの謎」というエッセイの中で、留学中の下宿先で食べたフランス風のサラダがとてもおいしかったという話のあと、

…それと今一つは、当時の日本の経済状態も、一つの要因をなしていた。清浄野菜などは夢にも考えられなかった時代のことである。寄生虫の心配なしに、生の野菜がばりばり食べられるということで、何だか別の世界に来たような気がしていた。

 
 と書いている。
 昭和初期の日本人の感覚として、「清浄野菜などは夢にも考えられなかった時代」だといい、「寄生虫の心配なしに、生の野菜がばりばり食べられる」ことは「別の世界」の話である、と。
 
 以前読んだ岡田哲『とんかつの誕生 ── 明治洋食事始め』によると、東京銀座「煉瓦亭」がとんかつの前身となる「豚肉のカツレツ」を売りだしたのが1895(明治28)年、東京上野「ポンチ軒」が「とんかつ」を売りだしたのが1929(昭和4)年のこと。
 
 とんかつに付きものであるキャベツの千切りは生野菜だ。とすれば、とんかつにキャベツの千切りがついたのはいつ頃なのか、そしてそれと中谷の記述との整合性はどうつくのか。
 
 と、そういう疑問。
 
 もう1つの疑問はこれ。
 
2)とんかつができた当初から、ソースはどう変遷したか
 
 とんかつが西洋の「ホールコットレッツ」から進化したのだとすれば、最初にかけられたソースは、恐らくデミグラスソースだ。
 今普通に使われている粘度の高い「とんかつソース」は1948(昭和23)年、道満調味料研究所(現オリバーソース)が開発したもので、とんかつ誕生の時には存在しない。
 おそらく、とんかつにかけられるソースは
 
デミグラスソース⇒ウスターソース⇒とんかつソース
 
 と変遷したと思われるが、この変遷はいつ頃起こったのか。
 これが2つ目の疑問。
 
 この疑問について、昔読んだ本やネット検索によりとりあえず答えを得ることができた。その結果と、そこから推察したことを書きたいと思う。
 
 ここから書くことは主に前述の岡田哲『とんかつの誕生』とネットから得た情報を元にしている。(ただしネットの方の情報も、この『とんかつの誕生』を根拠にしているものが多い)。
 ただ、私自身はこの著者のことはあまり信用していない(「積ん読解消運動(6)『とんかつの誕生』岡田 哲」参照のこと)。
 とはいえ「とんかつの誕生」という、本の根幹になる部分くらいはさすがに信用しておこう、というスタンスで行くことにする。
 
 話を進めていくにあたって、とんかつの歴史として以下のことを了解しておいてもらいたい。(『とんかつの誕生』、「とんかつの歴史を考える「井泉本店」のサイトなどによる)
 
1904(明治37)年
●東京銀座「煉瓦亭」がその前身となる「ポークカツレツ」(豚肉のカツレツ)を考案し、このメニュー名称での提供を始める。
1929(昭和4)年
●東京上野御徒町「ぽんち軒」(もしくは「ポンチ軒」)でとんかつ誕生
(宮内省大膳職で西洋料理担当の経験のある島田信二郎氏が、当時の同年頃に厚い肉(2.5cm~3cm)の中心まで火を通すとんかつ調理法を考案し同店で提供を始めた)
1932(昭和7)年頃
●東京上野「楽天」、東京浅草「喜多八」等がとんかつを売りだし大盛況を呈した。以後、ブームとなり、専門店である「とんかつ屋さん」が多数登場した。
1938(昭和13)年
●主材料の豚肉不足に悩んだとんかつ店が、それぞれ昭和初期創業の東京「銀座梅林」「新橋光幸亭」「上野井泉」「楽天」「よし田」「登運勝」「日本橋弥次喜多」「浅草弥次喜多」等を発起人として養豚事業を目的に組合を結成。とんかつ誕生から10年もせず、大きなジャンルに成長したことが伺える。
 
 これを踏まえた上で。
 
 結論としては、キャベツの千切りはとんかつ誕生以前にすでにあった。とんかつの前身である「ポークカツレツ」の頃、具体的には東京銀座「煉瓦亭」が1904(明治37)年から始めたそうだ。
 この出典はおがた硯峯「食べ物初めて物語」[洋食の定番 刻みキャベツ]
 すでにサイトはなくなっているので、インターネットアーカイブへのリンクを張っておく。
 ここには、こう書かれている。
 

ところで、揚げ物に絶妙にマッチするあの刻みキャベツを添えた洋食は、アメリカにもヨーロッパにもない。ニッポンオリジナル、洋食スタイルの基礎を創ったのは煉瓦亭だ。「明治37年の日露戦争がきっかけだったんですね」。四代目御主人の木田さんは刻みキャベツ誕生の由来を、祖父の元次郎からこんな風に聞かされたという。明治三十二年にカツレツが誕生したとき、付け合わせにはまだ茹でたニンジンやマッシュポテトなどの温野菜が使われていた。それが日露戦争で職人を兵隊にとられ人手不足となったため、手間のかかる温野菜を仕込む暇がなくなってしまったのだ。仕方なしに元次郎が思いついたのは、日本の一夜漬けだった。「日本には昔から野菜を一夜漬けにして食べる習慣がある。いっそ生のキャベツでもいいんじゃないか……」。世の中、なにが幸いするかわからないもの。食べやすいようにとせめて細く刻んだキャベツが、思いのほか脂っこいカツレツにマッチしたのである。
太文字は引用者=hietaroによる)

 
 この記事は煉瓦亭の現主人である木田明利氏への直接のインタビューに基づくものだそうだから、信頼性はけっこう高いと思う(もちろん伝承違いや記憶違いもあるだろうけど)。
 
 1899(明治32)年にポークカツレツが誕生した時には温野菜が使われていた。それが1904(明治37)年に生キャベツの千切りが使われるようになったと。
 そしてその発想は、すでにあった生キャベツの千切りをここに流用したのではなく、「日本には昔から野菜を一夜漬けにして食べる 習慣がある。いっそ生のキャベツでもいいんじゃないか……」という発想だったと。つまり、少なくともここでは「生で野菜を食べる」ことは、「人手不足」という窮地に陥って初めて得られた新しい発想だったということだ。
#なお、日露戦争は1904(明治37)年2月8日~1905(明治38)年9月5日。
 
 となれば前述の中谷宇吉郎の記述との整合性はどうなるだろう。
 
 Wikipediaによると、中谷は石川県出身で、1922(大正11)年に東京帝国大学に入学している。そこから理化学研究所(理研)を経て1928(昭和3)年、ロンドンに留学する。
 煉瓦亭で生キャベツが使われるようになってから中谷宇吉郎が石川から東京に出てくるまで18年だ。
 
 この時代の東京から地方への情報や文化の伝搬がどの程度のものだったかはよく知らない。
 煉瓦亭のやり方が、他の店でどのくらい採用されていたのかもよくわからない。
 
 岡田哲『とんかつの誕生』によると、池波正太郎『むかしの味』にはこんな記述があるという。大正時代の洋食屋について。
 

豚肉にコロモとパン粉をつけ、油で揚げたポークカツレツは、子供のころの私たちにとって最大の御馳走だった。浅草の下町にあった我家でも一年のうちに何度か、同じ町内の洋食屋からカッレツを出前してもらうことがあった。その小さな洋食屋の名は、たしか「美登広とみひろ」といった。この店では、フライやスパゲティやポテト・サラダを盛り合わせた料理を、「合皿あいざら」とよんだ。店名といい、この「合皿」といい、いかにも大正末期の名残りが感じられるではないか。中年の夫婦と、はたらきものの娘の三人でやっていた。「美登広」のポークカツレツは、ロースの薄切りを何枚か重ね、丹念に庖丁で叩く。だから子供の日にも年寄りの口にもやわらかかった。出前は娘が受け持っていて、「毎度どうも」と、岡持ちの蓋を開けると、皿と皿の間にワクをはさんだ料理と、小さなソース壜を取り出す。それを見つめているときの胸のときめきは、いまも忘れない。岡持ちの中から、ぷうんとラードの匂いがただよってきて、おもわず生唾をのみこんだものだ。岡持ちと、ワクをはさんだ皿とソース壜。この出前の洋食のイメージは、実に強烈なもので、子供たちにとって鮨や蕎麦の出前などとは問題にならなかった。豚肉をカツレツにすることが、日本に流行したのは大正の関東大震災以後のことで、それまではビーフカツレツが主導権をにぎっていたようだ。

 
 ここにはポークカツレツのつけ合わせとしての生キャベツの千切りの記述はない。生野菜という珍しいものが載っていれば、池波少年の脳裏に鮮烈に残ったに違いない。
 煉瓦亭で初めて登場した生キャベツの千切りは、このころはまだポークカツレツのメジャーなつけ合わせまでにはなっていなかったのかもしれない。
 
 上村行世『戦前学生の食生活事情』を読むと、大正時代当時、東京では学生の間ですでに日常的になっていたライスカレーなどの洋食に田舎から出てきた学生が驚くといった話が多く載せられており、東京で普及していた「洋食」の知識が必ずしも地方まで伝搬していなかったことが伺える。
 また、当時の学生の食生活事情について数多くの記述がある本書に「カツレツ」がほとんど出てこないことをみると、中谷が生キャベツの千切りの存在を知らなかったとしても不思議ではないように思う。知っていたとしてもやはりそれはかなり特殊な例として認識したかもしれない。
 
 ちなみに同書によると、中谷の師である寺田寅彦が東大の学生時代に書いた日記(1901[明治34]年3月1日)には
 

……帰りに藪そばへ寄り又巴里軒へ寄る。カツレツ一皿に俳句的味あり。

 
 との記述があるという。
 1901(明治34)年ならまだ日露戦争は始まっていない。つまり煉瓦亭で生キャベツの千切りは生まれていない。なのでこの日寺田が食べたカツレツのつけ合わせは恐らく温野菜など従来のものだろう。しかし寺田がカツレツの存在を知っていて、 ── 「俳句的味」がどんな味かはわからないが ── むしろわざわざ店に立ち寄って食べるほどであったとすれば、その後、教え子であり理研の自分の研究室にまで入れた中谷とカツレツを共に食べたこともありそうなものだ。逆に考えて、中谷がそれに言及していないということは、カツレツのつけ合わせに生キャベツの千切りを使うというのはそれほどメジャーではなかったのかもしれないと推測できないでもない。ただ、どうもこれは循環論法に陥りそうで、やはり「よくわからない」としておいた方がいいのだろう。
 
 生キャベツの千切りはその後、1929(昭和4)年に東京上野御徒町「ぽんち軒」(もしくは「ポンチ軒」)で誕生したとんかつに採用され、1932(昭和7)年頃からのとんかつ屋ブームの頃には常識的なつけ合わせになっていたと思われる。
 
 生キャベツの千切りがポークカツレツのつけ合わせとしてまだ主流ではなかったとすれば、いくら東京にいたとはいえ、1922(大正11)年に東京に出てきてとんかつ誕生の前年の1928(昭和3)年にロンドンに旅立つ中谷宇吉郎が生キャベツの千切りを知らず、「寄生虫の心配なしに、生の野菜がばりばり食べられる」ことは「別の世界」の話だと書いたとしても不思議ではない……ように思う。
#当時、キャベツが生で食されたことは解ったが、本当に寄生虫の心配がなかったのか、どういう栽培方法をしていたのかは今回は調べられなかった。
 
 一方、ソースについて、上記の池波正太郎の文章には「小さなソース壜」という記述が見える。ビンに入ったソースとなれば、粘度の面で考えて、これはやはりデミグラスソースではなくウスターソースだろう。
 ウスターソースは生キャベツの千切りよりもひと足早く、メジャーなポークカツレツの相棒の地位を得ていたことが窺える。
 
 「生キャベツの千切り/ウスターソース」というコンビはこの少し後、1929[昭和4]年にぽんち軒で誕生したとんかつに採用され、1932(昭和7)年からのとんかつ屋ブームの頃にはこの取り合わせが常識的になったと思われる。
 
 話は前後するが、前述のおがた硯峯「食べ物初めて物語」[カツレツ]と「とんかつの歴史を考える」というサイトを見ると、正確な時期はわからないものの、生キャベツの千切りを添えたのと同じ頃から煉瓦亭ではソースをデミグラスソースからウスターソースに変更し、パンをライスに替えたと書かれている。
 
 少なくとも煉瓦亭では、ポークカツレツの相棒としての「生キャベツの千切り」「ウスターソース」はほぼ同時期に誕生していたと。
 
 上述どおり、それまでの温野菜のつけ合わせに替えて生キャベツの千切りが登場したのは、日露戦争による職人不足という要因があった。
 
 ポークカツレツにかけるソースがデミグラスソースからウスターソースに替えられたのがそれと同時期だとすれば、これもまた同じ「人手不足」によるものだろう。
 デミグラスソースを作るのはかなりの時間と手間がかかる。温野菜を仕込む人手すら厳しくなったのであれば、これは店にとって大きな負担だったはずだ。この負担を解消するために既成品のウスターソースを購入したのではなかろうか(購入後のアレンジはあったかもしれない)。
 パンからライスに替えたのも、結局は同じ理由からだったのかもしれない。
 
 当時、「洋食」そのものが新鮮な食文化だったと思われるが、理由は何であれ、生野菜食という新鮮さもまた「洋食」の新鮮さの1つとして受け取られただろう。ウスターソースもまた然り。きっと当時の「洋食」は私たちが想像する以上に「新しい」ものだったに違いない。そしてそれは西洋文化への憧れとも重なったのだろう(それは日本にしかない架空の「西洋文化」ではあったけれど)。
 
 生キャベツの千切り、ウスターソースという、その後「洋食」の大きな担い手となる要素が日露戦争という外的要因でやむなくできあがったとすれば、これはなかなか興味深いことだ。

 なお、この疑問をtwitterに書いた時、このブログにもたまにコメントをいただくsettu-jpさんからこんなことを教えていただいた(ありがとうございます)。

ひえたろう@笑顔と上機嫌こそが最高の化粧さんはTwitterを使っています: "以前書いたけど、日本での野菜の生食はいつ頃だったのかな。『中谷宇吉郎随筆集』には昭和初期は「清浄野菜な

@hietaroさん、根菜(大根、山芋)や果実(瓜類)と、葉物でも葱は生食がされていましたしレタス類の「ちしゃ」も料理物語でなますの例が有ります

2015/06/17 02:58

 つまり、それまでに日本に野菜の生食がなかったわけではなく、根菜や葱などの生食はあった、と。
 そしてそのメジャー展開?として、とんかつ(ポークカツレツ)のつけ合わせとしてのキャベツの生食が、少なくとも明治の後期以降から始まっていたと。
 ただ、その文化の地方への伝搬、全国的な普及については改めて考えてみないといけないようだ。

 ソースについては、意外にも早い時期にウスターソースが使われだしたんだなあという印象だ。
 ただ、使われたのがどんなウスターソースだったかはよく判らない。
 
 1904(明治37)年当時で手に入ったと思われるウスターソースは、国産だと三ツ矢ソース日ノ出ソース矢車ソース白玉ソースあたりだ。このうち矢車ソース白玉ソースが東京なので、煉瓦亭ではこのあたりが使われたのかもしれない。
【追記】勘違いです。白玉ソースは大阪。
 あるいは明治屋が1900(明治33)年にイギリスから輸入を開始したリー・アンド・ペリンス社のソースという可能性もある。
 「自作」ということも考えられないわけでもないが、もしそうならけっこうな作業だったはずだから煉瓦亭のインタビューにも出てきそうなものだし、そもそも「人手不足」の対応としては整合しにくい。それに当時はまだソースメーカーも各社が独自に試行錯誤している段階だから、飲食店がそれをやるというのはちょっと考えづらいと思う(1904[明治37]年は、矢車ソース白玉ソース創業から5年くらい)。
 
 あと、ウスターソースからとんかつソースに移行した時期についてはあまりよく判らなかった。
 前述のように、「とんかつソース」は1948(昭和23)年、現オリバーソースによって発売され大ヒットしたというから、おそらくは発売以降、急速にこれに切り替わっていったのだと思われる(ちなみに「とんかつソース」とは商品名であり、一般名は「濃厚ソース」という。ウスターソースの粘度を高くしたもののこと)。
 
 ただ、デミグラスソース⇒ウスターソース という流れの中で、ウスターソースの味とデミグラスソースの粘度を併せ持つ「とんかつに合うウスターソース」という発想を、それまでにどこかの店が発想していても不思議ではない。
 この頃になるとウスターソースを自作する店があったかもしれない。あるいは既成のウスターソースを買ったとしても、それを店でアレンジし何らかのやり方で粘度をつけて使っていた店があったかもしれない。
 オリバーソースの「とんかつソース」自体、各店のそういう工夫をヒントに製品化したとも考えられなくはない。
 
 実際はどうだったのだろうか。
 これは新たに湧いた疑問。答えはまだない。

 これは余談。
 このあたりを調べていると、岡本かの子の小文が引っかかった。「異国食餌抄」という。
 岡本かの子というのは岡本太郎の母親で、小説家だ。
 
 短い文章なので読んでいただければいいが、その最後に、とんかつのことが書かれている。
 

 日本に始めて渡来した西洋料理がポークカツレツ――通称トンカツであったかどうかは知らないが、西洋にいても日本人はよくこのトンカツを食べたがる。ところがこのトンカツなるものが西洋の何処どこへ行っても一向いっこう見当みあたらないので失望する人が多い。イギリスのレストラントへ行ってメニュウを探して見るとポークカツレツというのがあるから、喜んで注文するとそれはわれわれの予期するカツレツではなくて日本の所謂いわゆるポークチャップであった。トンカツは英語と考えている人があると見える。倫敦ロンドンで会った人の話に、その人もトンカツを英語とばかり思っていたので、レストラントへ行ってトンカツレツをくれとったがどうしても通じないで非常に弱ったそうだ。
 トンカツにめぐり会わない日本人はようやくその代用品を見つけて、衣を着た肉の揚物あげものに対する執着しゅうちゃくたすだけで我慢しなければならぬ。それはこうしの肉のカツレツである。フランスではコトレツ・ミラネーズと云い、ドイツではウィンナー・シュニッツレルと云う。
 フランス人はその名の示すようにこの料理を伊太利イタリアミラノのコトレツと考え、ドイツ人は墺太利オーストリア首府しゅふウィーンの料理と考えているらしい。差当さしあたってこの両都市で本家争ほんけあらそいおこすべきである。コトレツ・ミラネーズとウィンナー・シュニッツレルのことなるところは前者は伊太利風のマカロニかスパゲチを付けあわせとしてり、後者が馬鈴薯じゃがいもを主な付け合せとしていることで、そこに両本家の特色を表わしている。

 
 Wikipediaによると、岡本かの子は1929(昭和4)年12月にヨーロッパに外遊し、パリ、ロンドン、ベルリンを経てアメリカ経由で1932(昭和7)年に帰国している。
 
 この文章はその当時の思い出を語っているものと思われるが、とんかつ誕生の年1929(昭和4)に旅立った岡本かの子の思い出に、とんかつを求めてレストランに行く日本人の話が出てきていて面白い。
 とんかつがそんなに早く人気に?と思ったりもするが、「ポークカツレツ――通称トンカツ」と書いていることを考えると、おそらくこれは「ポークカツレツ」だと思う。かの子は帰国後に「トンカツ」という名称を知り、こう書いたのだろう。
 ……とも思うが、ロンドンで会った日本人がレストランで「トンカツレツをくれ」と言ったという話なんかを考えると、ひょっとしてポンチ軒以前に「トンカツレツ」あるいは「トンカツ」という名でとんかつかポークカツレツを出していた店があったんじゃないかという推測も生むよねえ。
 
 実際のところはどうかわからないけど。

 『とんかつの誕生』には、こんな記述もある。
 

「とんかつ」の命名には、さまざまな説がある。カツレツにもちいる獣鳥肉は、本来は牛肉・鶏肉であった。豚肉になると、「ポークカツレツ」「豚肉カツレツ」と呼ばれた。また、「豚(とん)カツレツ」という言葉は、この頃の料理書や料理のメニューに散見されており、ポークカットレット→ポークカツレツ→豚肉カツレツ→豚カツレツ→とんかつと、呼び名が変化したように思われる。
ここで、ポークカツレツと、とんかつの違いをもう一度整理しておこう。「ポークカツレツ」は、薄い肉に衣をきせて炒め焼きにする。ソースをたっぷりかけて、ナイフとフォークで切りながら食べる。一方「とんかつ」は、分厚い豚肉に、塩・コショウで下味をつけ、コムギ粉・溶き卵・パン粉をきせて、てんぷらのように揚げる。付け合わせに刻み生キャベツを添える。箸で食べやすいように、庖丁で切ってから皿に盛る。好みのウスターソースやトンカツソースをたっぷりかける。味噌汁と米飯がよく調和する。ハムやソーセージの原料に過ぎなかった柔らかい豚のヒレ肉が、とんかつの素材として、一躍脚光を浴びはじめるのである。

 
 となると、やはりロンドンの日本人が所望したのは「豚カツレツ」で、それを岡本かの子は「トンカツ」と表現したのかな。

 どうもしらべればまだまだ資料が出てきそうだ。
 他にも解ってきたら、このエントリを書き直すか、新しいエントリをまた立てます。

突然食いたくなったものリスト:

  • New とん助のとんかつ

本日のBGM:
GOUNN /ももいろクローバーZ





 


6 comments

Skip to comment form

  1. 摂津国人

    DATE: 07/16/2015 01:24:41 AM
     こんばんは。ブックマークの続きです、図書館に行ったついでに調べてきました。
        
     カタカナ表記ですが「トンカツ」用例の初出は此方、永井荷風の「銀座 明治四十四年七月http://www.aozora.gr.jp/cards/001341/files/49640_38957.html」の「ここにおいて、或る人は、帝国ホテルの西洋料理よりもむしろ露店の立ち喰いにトンカツのおくび(「口+愛」)をかぎたいといった。露店で食う豚の肉の油揚げは、既に西洋趣味を脱却して、しかも従来の天麩羅と抵触する事なく、更に別種の新しきものになり得ているからだ。カステラや鴨南蛮かもなんばんが長崎を経て内地に進み入り、遂に渾然たる日本的のものになったと同一の実例であろう。」があり、あと高村光太郎の詩「夏の夜の食欲 大正元年」に「癌腫の膿汁をかけたトンカツのにほひ」とあります。
     明治末にはてんぷらと比較される豚の肉の油揚げが既にトンカツと呼ばれていたと考えてよいでしょう。一応岡本かの子の文はそのままで読めます。
    明治36年の村井弦斎「食道楽」の「第四十二 カツレツ」等では鶏や仔牛ですがパン粉をつけて揚げる物を「カツレツ」としています。付け合わせは温野菜で生千切りキャベツは見当たりません。コロッケの類は多くあります。
        
     その露店については「夜食の文化誌 青弓社」のP82に「文藝界 夜の東京 臨時増刊号(明治35年)」の露店の一つの業態として「西洋料理店」があり、その記事の内容が注としてP105に「是は近頃露店の仲間入りをしたハイカラ露店である」「フライも出来れば、ビフステキも出来る、ヲムレツも出来る、シチウも出来ればライスカレーも出来る、お負けにソースまで添えてあろうといふのであるから兎に角整ったものと謂わなければならぬ」とあります。断言できませんが露店の簡便洋食ですからブラウンソースやデミグラスソース等以外に簡易な出来あいウスターソースの可能性もあり「掛けてある」ではなく「ソースまで添えてあ」るという表記もそれを意味しているようにも読めます。
         
     逆に初期の国産ウスターソースが洋食の焼き物と揚げ物に掛ける以外に何の利用法があったのだろうか、ともいえます。
     明治30年代にはウスターソースが簡便洋食を通じて広まりそれとともに日本大衆「洋食」が成立したという仮説も考えられます。「東京ソース、ウスターソースの歴史http://www.tokyo-sauce.com/this2.html」。早い段階からウスターとその他のソースが並行して用いられていたのかもしれません。
             
     そして一銭洋食や洋食焼きのどこが「洋食」なのかといえば「ウスターソース」を使うという点だといえるのも傍証だと考えます。昭和初期の阪急百貨店のソーライスもその流れでしょうか、その頃には既に洋食の味としてある程度一般化していたのでしょう。明治後期以降のソースメーカーの隆盛はそれを背景にしたものだと考えます。
     露店や屋台の簡便洋食と日本のウスターソースとの関連は興味深いでしょう。関西と関東にも違いが有るのかもしれません。
         
     ご存知の事も多いでしょうがついでにいろいろ。(この節、括弧内は摂津国人による)
     「日本の食文化史年表 江原絢子 東四柳祥子 吉川弘文館」によると明治18年にヤマサ醤油が日本初のミカドソースを発売するが売れず翌年中止、明治22年に茨城の醤油業者関口八兵衛がハトソヲ―ス(ママ、検索では鳩ソースで見つかる)を発売、明治25年に神戸で阪神ソース(ママ、18年説が有ります)が発売、27年に大阪の越後屋の三ツ矢ソース、29年に同じく大阪・阿波座の山城屋が錨印ソース、30年に東京伊藤胡蝶園が矢車ソース、31年に醤油業者大会でソース作りが話し合われ各地で生産が始まる。同年に大阪の野村屋が白玉ソース(野村食品製造所との表記もある)、33年に神戸日の出ソース、36年にカゴメがトマトソース(ピューレ)を作りはじめ39年に本格生産41年にトマトケチャップとソースを発売、38年ブルドックソース(犬印)。(記録のないソースメーカーも有るのかもしれない)
     大正11年頃には「ライスカレー、コロッケ、トンカツ」が大正三大洋食と呼ばれ、在東京歩兵連隊で「フライ、カツレツ、コロッケ、焼肉焼肴、オムレツ、口取の順で人気をえる」とあり大正14年に中島薫商店(キユーピー)でマヨネーズが発売、同年大阪衛生試験所でハクサイ、ホウレンソウ、ネギ、ミツバに回虫卵が多いと判明、昭和29年にカゴメトンカツソース発売とあります。
         
     あと洋食では「明治西洋料理起源 前坊洋 岩波書店」によると陸軍明治19年7月の献立に「カツレツ」が有り(P52)、明治18~19年の「時事新報」の「松の家」の献立に「チキンカツレツ」と「ビールカツレツ(ママ)」(P90~95)がありますがこれらの調理法が揚げ物かはわかりません。ただ「魚フライ」も有るので洋風揚げ物自体はこの時点で有ったと考えられます。
     「料理本のソムリエ」にもありましたが「ポークカトレット」は調理法はわかりませんが同書P97の明治23年5月4日の観光ガイド「時事新報 東京案内」が今のところ初出です。豚のカツレツは少なくともそれ以前から有ったという事でしょうか。煉瓦亭より早いですがどうでしょう。
                
     「料理本のソムリエhttp://www.shibatashoten.co.jp/dayori/2013/12/06_1345.html」に「木村毅の昭和14(1939)年刊行の随筆集『南京豆の袋』に収録された「トマトが初めて村へ来た頃」」の内容として「明治四十三年に上京したが、あの頃は洋食をたべに行つても、カツレツやビフテキにつくのが、キャベツの刻んだのだつた。」とあります。勿論30年前の記憶が正しいかはわかりませんが。
     キャベツの千切りの一般化も明治にまで遡れるかもしれません。池波正太郎が生まれる前から生キャベツの千切りが普通だったのでしょう。
         
     中谷宇吉郎のは「心配しながら食べていた」のか「自分は日本では心配だから食べなかった」かという意味かもしれません。
     生キャベツの千切りが食べられるようになってから後で寄生虫の問題が明らかになり、あまり気にせず食べる庶民と寄生虫の心配をして生野菜を食べないインテリとの意識の差が有ったのかとも思います。ちなみに当時も食べられていた多くの「漬物」もその意味では生野菜で寄生虫の感染源になります。

    1. hietaro

      DATE: 07/17/2015 05:19:12 AM
      >摂津国人さん
      わざわざ調べていただいてありがとうございます。m(_ _)m

      明治末に、その形態はともかく、「トンカツ」という呼称が存在していたことは確かなようですね。
      そこからの派生か、揚げ物を(「カツレツ」ではなく)「カツ」と呼ぶことも普及してきていたようで、大正4年には大阪で「串かつだるま」が創業しています。
       
      どれにせよ岡田哲氏の説を信用するのはかなり危なそうですね。
       
      屋台の洋食についてはかなり興味深いです。
      洋食がその誕生から庶民の味にまで普及するまでというのはかなり短かったようで、その実態の一翼を担っていたのが屋台なのだろうと想像します。ただ、実態を掴むのは難しそうですが…。

      ソースについては書いていただいたものを見て勘違いに気づきましたが、白玉ソースは大阪ですね。エントリ本文では東京のソースと書いてしまいました。
      白玉ソースについては面白いというか不思議な話があります。
      以前、図書館に行った時に過去の商工名録を見たのですが、白玉ソースは大正14年には野村商店、昭和22、31年には白玉ソース(株)とあるのですが、大正15年には屋号は「珍品堂」となっています。扱っている商品(食料品、ソース、洋食器、洋酒(製・卸))を見ると、販売を手掛ける別の店を作ったのかとも思いますが、「洋酒(製)」がこれまた興味深いところです。
      おっと脱線しました。
       
      生キャベツの千切りの普及も、もう少し掘りさげたいところです。
       
      >中谷宇吉郎のは「心配しながら食べていた」のか「自分は日本では心配だから食べなかった」かという意味かもしれません。
       
      これはありそうな話ですね。食べないことには「寄生虫の心配」があること自体がわかりませんので、生で食べることもあったが、それは野菜の生食が原因で、と一般的に知られるくらいには野菜の生食は「あった」と考えるのが普通かもしれません。
      つまり野菜の生食は「あった」。ただしそれはまだ「安心して」食べられるものではなかった、というのが実態だったのでしょうね。
       
      いろいろ勉強になります。
      これからもよろしくお願い致します。m(_ _)m

  2. 摂津国人

    DATE: 07/17/2015 11:19:58 PM
     大変細かな部分で恐縮ですが現在の串カツだるまのホームページでは創業「昭和」4年になっていますがどうなのでしょう。

    1. hietaro

      DATE: 07/18/2015 12:17:29 AM
      >摂津国人さん
       
      ああああ、これは私の勘違いです。
      というか、昭和4年だと頭にあったのに。話の流れで…。
      ありがとうございます。お恥ずかしい。><

  3. 摂津国人

    DATE: 09/23/2015 10:09:27 AM
     こんにちは、「とんかつの誕生」について記事を書きましたが、トラックバックがうまくいかなかったのでこちらに失礼します「新・とんかつの誕生」http://d.hatena.ne.jp/settu-jp/20150922/1442901832 。

    1. hietaro

      DATE: 10/25/2015 06:11:40 AM
      摂津国人さん こんにちは。
      お返事遅れてすみません。
      私のふとした疑問を引き受けていただきありがとうございます。
      食の歴史というのは難しいですね。特にこういった大衆食の場合、なかなか記録も残りにくく断片的なものを集めていくという地道な作業が必要になることがわかります。
      摂津国人さんのこのエントリはとんかつの誕生についていろいろ新しいことがわかった、意義深いものだと思います。
       
      挙げていただいた資料などもとても勉強になりました。
      特に濃厚ソースの誕生について、市販以前の各店の工夫を調べてみたいと感じました。
      ※追記された「トマトウースターソース」というのは面白いですね。このソースにどうして「ウースターソース」という名をつけたのかを含めて興味深いところです。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。

CAPTCHA