『神戸とお好み焼き』(三宅正弘)

 先日コメント欄で教えてもらった三宅正弘『神戸とお好み焼き』(2002年)を図書館で借りて読んだ。
 


三宅正弘『神戸とお好み焼き』(神戸新聞出版センター/2002/12)


 著者は地域計画家で、大学の准教授だという。副題は「比較都市論とまちづくりの視点から」とある。「地域計画家」とはどんなことをするのかよく判らないけど、どうも「まちづくり」を提唱する人らしい。コンサルっぽいことをするのかな。
 この本を読んで間もない頃に古本で購入した『あまから手帖』2014年3月号(「ウスター&デミ 最強のソースフード」特集)に「関西ウスター事始め」というコラムを寄せていて、そこのプロフィールには2013年から2014年3月末までパリのフランス人文化学研究所で研究中とあった。
 
 可否入り交じる本だった。
 史料として貴重な部分は多いが、それを分析、咀嚼した部分については「どうなのそれ?」と思ってしまうところが多々あった。そしてこれらの「事実」をこの本のテーマである「まちづくり」に結びつけるところはかなり曖昧で、言い方は悪いが勉強をしてない大学生のレポートのような印象を受けた(とはいえ、この著者自身大学の准教授であるし、別の大学でも講師として授業を持っているのだけども)。
 
 まあシビアな話はそれとして、この本でまず素晴らしいのは2002年の時点で「地ソース」に大きくスポットを当てているところ。
 
 著者は神戸が持つ、大阪や広島とは違う固有のお好み焼き文化として、以下の3つの点を挙げる。
(1)名称 ── お好み焼きのことを神戸の50歳以上の世代は「にくてん」と呼ぶ(引用者注:この本が2002年に書かれたことを考えれば、現在ではこれは「60歳以上」くらいに読み替えるべきだろう)
(2)焼き方 ── キャベツと小麦粉を混ぜて焼く一般的な焼き方ではなく、広島焼きのように、粉をクレープ状に流し、その上にキャベツをのせる店が多い。この焼き方は、お好み焼きの前身である「洋食焼き・一銭洋食」のものであるが、神戸ではこの焼き方が今でも引き継がれている。
(3)味(ソース) ── 全国的に流通する大ソースメーカーのソースではなく、地元にひしめき合うメーカーの「地ソース」が使われ、店主も客も「○○ソースでなくてはならない」というマイ・ブランドのこだわりを持っている人が少なくない。たくさんの小さなブランドが神戸の中で共存している。マヨネーズを好まないということも挙げられるかもしれない。
 
 そして5つの章立てのうち第1章をまるまる「地ソース」についての記述に当てている。
 同じ「単一メニュー」を扱った本でも、その料理の味にあまりに大きな影響を与えるにもかかわらずソースについてほんの少しの(しかもいい加減な)記述しかしていない『とんかつの誕生』(岡田哲)とは対照的だ(『とんかつの誕生』については「積ん読解消運動(6)『とんかつの誕生』岡田 哲」に書いた)。
 
 「地域に密着したソース文化」というタイトルがつけられたこの章は関西を代表するグルメ雑誌『あまから手帖』の2001年5~10月号に連載された「関西地ソース物語」に加筆・訂正したものだそうだ(他の章はすべて書き下ろし)。
 
 地ソースが脚光を浴びだした(浴びてるの!)のは2000年代からだと思うが、まさにその端緒を開いた連載だったはずだ。他ならぬ関西で、しかも連載で地ソースに注目した記事が書かれた意義は大きい。
 その意味で、その先駆性を称賛したい。もちろんその先駆性を無視すればツッコミを入れたくなる記述もたくさんある(例えばこの章にはいくつかメーカーから提供されたラベル写真が掲載されているが、メーカー自体を取材した形跡がなかったり、ソースが「たくさんある」ことを示すのはいいとして、あとは「感想」レベルの記述ばかりだとか)が、少なくとも執筆時点では、「神戸にはこんなにも地ソースメーカーがある」という事実だけでも新たな「発見」だったはずなのだ。
 
 なお、神戸市内の地ソース会社及び第1章に登場する地ソースの銘柄は以下のとおり(本書内で著者自身がリストにしている)。
神戸市内
・ニッポンソース(岡本食品工業所)
・オリバーソース(オリバーソース)
・タカラウスターソース(神戸宝ソース食品)
・ばらソース(ばら食品)
・日ノ出ソース(阪神ソース)
・プリンセスソース(平山食品)
・二見ソース(二見ソース本舗)
・ブラザーソース(森彌食品工業)
第1章に登場する関西のソース会社
兵庫県内
・ドリームソース(木戸食品/明石市)
・七星ソース(七星ソース/伊丹市)
・フクスケソース(ナニワ食産)
・ワンダフルソース(ハリマ食品)
・名城ソース(メイジョーソース)
大阪府
・イカリソース(イカリソース/大阪市)
・大黒ソース(大黒屋/福島区)
京都府
・蛇ノ目ソース(蛇ノ目ソース本舗広田本店/亀岡市)
・パパヤソース(大洋産業)
※表記、住所などは本書ママ

 大阪、広島だけではなく、神戸もまたお好み焼きの歴史が古く、また地元に根づいている。
 大阪ではお好み焼きの前身として「洋食焼き」があったが、同様のものが神戸では「にくてん(肉天)」と呼ばれ親しまれていた。両者は名前は違うが「中身は似ている」という。
 「鉄板上に水溶きの小麦粉をクレープ状にひいた上に、キャベツまたはネギ、味付けこんにゃくなどの具を乗せる(略)。にくは、牛と豚どちらもあったようだ。店の鉄板の上には薄いソースか醤油が入った箱があり、それを塗るというものだ。具にはグリンピースというのもあったようだ。子どものおやつとして駄菓子屋の店先で焼かれていたものと、「一銭洋食屋」「にくてん屋」として専門店で営業していたものとがあった
 「にくてん」の名の由来は、一般的には「肉に小麦粉をつけて油で焼くことからきている」という。肉の天ぷらで肉天だと。ただし肉を一番上(天井)に乗せるからだとか、「てん」とは「転」で、ひっくり返すからだとか、肉と天かすが具になるからだという説もある。
 「にくてん」の分布は、「定かでないが東は神戸どまり、西は明石、南は淡路島の由良まで」で、「主に戦前・戦後期の神戸の方言的なもの」だという。
 また、大阪の「洋食焼き」、神戸の「にくてん」と同様に、今の「お好み焼き」の前身となるものとして、昭和初期、東京では「どんどん焼き」があったという。書物にも「どんどん焼き」が登場する。ただしこれも「混ぜ型」と「のせ型」が混在するという。

 文中に「東京ではお好み焼きのことを、豚天、イカ天と、語尾に「天」をつけて呼ぶ。これは、関西などで、豚玉やイカ玉、もしくは豚焼きやイカ焼きと呼ぶ、~玉、~焼きと同じことである」とある。
 
 ここは少しモヤッとする。
 関西の「玉」は玉子の「玉」だろう。実際、著者もにくてんの店の紹介の中で、「戦前からの神戸の町のお好み焼き屋において、基本メニューには玉子が入らないということは、例え焼き方が混ぜ型(小麦粉と刻みキャベツを混ぜて焼く)の店であっても共通する」「わざわざ追加しない限り玉子は入らない」と書いており、玉子が入らない場合は「○○玉」と呼ばれることはない。なので「玉」は「お好み焼き」「洋食焼き」「にくてん」の名前に単純につく一般名詞的なものではなく、あくまでもオプションとして玉子をプラスしたメニューを示すと考えるべきだと思う。

 大阪の「洋食焼き」、神戸の「にくてん」がいつ頃「お好み焼き」となったのか。
 著者はいくつかの文献をもとに、混ぜ型の「お好み焼き」は昭和10年代に「子供から大人へ、屋台からお座敷へと変わり、大人が楽しむ風流遊戯料理」として東京で誕生し、それが大阪に伝わったとの説を紹介する。
 この出典が岡田哲の『コムギ粉の食文化史』(1993)で、正直、私自身はこの人の説はあまり信用したくないのだが(当ブログエントリ「積ん読解消運動(6)『とんかつの誕生』岡田 哲」参照)、他に説を知っているわけでもないし、さしあたり「こうかもしれない」と考えておく。

 日本コナモン協会で聞いた説だと、お好み焼き屋は男女の逢い引きの場だったという。各テーブルは仕切りで「個室」化され、客が自分で焼くことにより店員の登場に煩わされることなくゆっくりと2人の時間を過ごすことができた。となるとテクニックの要る重ね焼き(洋食焼き)では不都合で、より簡単な、具材をみんな混ぜ込んでしまうタイプの「お好み焼き」になったと。すると客回転は悪くなり、必然的にそれなりの値段を取るようになる。子供のおやつだった「一銭洋食」とはますます離れていくことになった。
 これは上記の「屋台からお座敷へと変わり、大人が楽しむ風流遊戯料理」にも相通じる説ではある。
 
 この変化の中で、カップが大きな役割を果たしたと著者は見る。

 1人分の混ぜ焼きの材料を入れ、テーブルに運ばれる、あのカップだ。(⇒こういうの)
 従来の、別々の客が中央の大きな鉄板を囲んで座り、中央で店の主人が焼くスタイルの店にはカップは必要なかった。これが客がそれぞれ別々のテーブルになり、そこで焼かれるようになって(焼く人間が客であろうと店員であろうと)、カップが必要になった。カップだと持ち運びができ、1人分の計量ができるようになる。持ち運ぶことができることは調理場と客とが離れること=店の大型化を可能とさせ、分量を計量できることは焼き方のマニュアル化を可能にする。
 さらに著者はカップで運ぶとどうしても材料が混ざってしまうことに注目し、これが「混ぜ焼き」のお好み焼きが普及する原因になったのではと推測している。

 本書で面白いと思った話の1つが、お好み焼きが大阪の「名物」とされるようになった年代についての記述だ。
 「第4章 お好み焼き比較都市論 ── ガイドブックを読む」では、各時代(特に昭和三〇年代以降)のガイドブックのお好み焼きについての記述から、リアルタイムのお好み焼き事情を拾ってゆく。
 そこでわかったことは、「大阪の名物として有名なものだが、名物としての歴史は短い。戦後の観光ガイドやグルメ誌をみると、その掲載はだいたい昭和四〇年代からである。それ以前のものにはあまりみられない」ということ。
 昭和30年代後半に「大阪ミナミの宗右衛門町の「玉出ぼてじゅう」や大阪・住吉区の帝塚山「やきもきや」」が登場し、40年代には「大阪の名物として旅行ガイドに定着してくる」。
 お好み焼きを「大阪名物」に押し上げたのは、どうも「ぼてじゅう」など企業化したチェーン店の宣伝の賜物であったらしい。
 著者は同じくお好み焼きの系譜のあった神戸ではお好み焼き(あるいは「にくてん」)が「名物」と認識されなかった理由として、企業化された店が少なかったことを挙げている。
 
 面白いことに、そんな「お好み焼き」が表舞台で認知されはじめた当時ですら、戦前の「洋食焼き」がどうして「お好み焼き」と呼ばれるようになったのかという興味が持たれており、そしてそれは当時でもよくわからなかったようだ。
 
 また、複数のガイドブックで、お好み焼きと一銭洋食を比較しているという。一銭洋食とお好み焼きの連続性は、やはり常識的な認識だったのだろう。

 他に興味深かった記述は、ホットプレート普及以前の家庭用の鉄板の話。
 これはコラムとして書かれている文章の中にある。
 「ホットプレートがない時代、各家庭が知り合いの鉄工所であつらえてもらっていた」という。「兵庫県内でも、神戸や尼崎にはこうした鉄板をもつ家庭が多い。鉄鋼の街の一面がここにある」。
 なるほどなあ、という話。
 
 鉄板の話としては他にも、三田市の「よしひろ」の話が書かれている。
 「船底の鉄板を再利用した鉄板が50年以上も使われている」という。「鉄板の周りの木製の枠は、船の手すりに使われていたものである。その手すりにひじを置いてテコで食べるようになっている。船として数年使われたあと、更に長い年月再利用されてきた歴史的な遺産である。港街の名残りが山の中の三田に残っている」。なんとも風情のある話じゃないか。
 調べてみたところ、「よしひろ」はまだ営業しているようだ。⇒食べログ
 一度行ってみたい。

突然食いたくなったものリスト:

  • 大門のとろろわさびお好み焼き

本日のBGM:
猛烈宇宙交響曲・第七楽章「無限の愛」 /ももいろクローバーZ





最終更新:2017/03/21
 


1 個のコメント

  1. DATE: 03/14/2016 04:27:40 PM
     現在では大阪名物ともされるコナモノ大衆食であるお好み焼きの歴史ははっきりとはわかっていません。 ネット百科事典Wikipediaでも戦前についてはわか…

    TITLE: [雑記][薀蓄]戦前のお好み焼き
    URL: http://d.hatena.ne.jp/settu-jp/20160314/1457940308
    BLOG NAME: はてなビックリマーク

    hietaro注)このエントリには上記エントリからトラックバックをいただいています。引っ越し後の本サイトにはトラックバック機能がないのでこの欄に示しておきます。興味深いエントリなのでどうぞ読んでみてください。

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