知らない人は知らないが、世の中(の一部)では、教育現場での「かけ算の順序問題」という難儀な問題が、それこそ何十年もの間、収まることなく続いている(「かけ算の順序問題 – Wikipedia」には「日本では、1972年に朝日新聞で報道されて以来、数学者らにたびたび取り上げられた」とある)。
twitterのタイムラインにも断続的に現れるし、閲覧数の多いブログでやればコメント欄がえらいことになるという感じ。まあtwitterのフォローだって閲覧しに行くブログだって私自身の好みなんだから、この話題が世の中の普遍的な話題だとは思わないけどね。それでもまあ、「一部では」ずっと長い間、熱い問題なのだ。
知らない人は「かけ算の順序問題 – Wikipedia」を読んでいただければ概要はわかると思う。
大ざっぱに言えば、かけ算には
「1つぶんの数 × いくつ分 = ぜんぶの数」
という「順番」があり、逆で書くと「不正解」である/いやそんなことはない という話。
かけ算は誰もが習うものだし、問題設定自体が単純(「かけ算に『正しい順序』があるのか」)だから、それまでの議論の蓄積を踏まえずとも、みんな一言くらい口を挟みたくなる話題ではある。
私自身、以前ツイッターでこんなツイートをしたことがある。
高校教師のかけ算の順番問題のtogetter見たけど、「3×2は2+2+2のこと」という感覚は、日本語で文章考えてるからだろうなと。
— ひえたろう@笑顔と上機嫌こそが最高の化粧 (@hietaro) 2013, 11月 18
かけ算の順序にこだわる人って、「日本語」での思考を数式に持ち込んでるように見える。「x円のノート8冊」は英語なら普通に「8 × x」になりそうだ。 / “かけ算の順序にこだわる教師と出版社の皆様へ” http://t.co/408kAWaOpr
— ひえたろう@笑顔と上機嫌こそが最高の化粧 (@hietaro) 2013, 11月 21
算数や数学ってのはそれ自体抽象思考で、他の何者とも置き換えの利かない現実世界を、そういう抽象概念に置き換えることと、その中の作業の両方を指してると思う。現実から抽象への置き換えという作業は、本当に凄いことで、これが人間の凄いところなんだろうと思う。にもかかわらず⇒
— ひえたろう@笑顔と上機嫌こそが最高の化粧 (@hietaro) 2013, 11月 25
⇒せっかく抽象世界に置き換えた話に、なぜかまだ現実世界の尻尾をなんとかくっつけていこうというのが、「かけ算に順序がある」と言ってる人のやってることのように思える。
— ひえたろう@笑顔と上機嫌こそが最高の化粧 (@hietaro) 2013, 11月 25
で、こんな感じの私のスタンスとピッタリのエントリを読んだのでその記事にリンクを張ってご紹介しておこうというのがこのエントリの趣旨。(^^;
・掛け算の順序問題について(tailwisdom’s blog)
全面的に賛成だ。
やっぱり、「抽象化」が数学や算数の本質だと思うんだよなあ。
☆「なかま」「ともだち」という概念は、「はずれ」という言葉を付け加えないで「なかま」といっただけでも、「なかまでないもの」を含んでいる。
── 安野光雅『算私語録その3』より。
☆足し算・引き算をやっているということは、ことばにこそ出さなくても「なかま」と「なかまでないもの」を意識している。象とチューリップは足せない。なぜなら、「なかま」ではないからだ。 ── 安野光雅『算私語録その3』より。
|
これらの言葉は、それ以外他にない「現実」というものを、共通点でくくって「同じもの」として考える(と同時に「違うもの」と分ける)人間の思考の重要な部分をよく示していると思う。
☆ 我々は普段、無造作に現実という言葉を使っているが、その指し示す内容は一向に現実的なものではない。 気温、温度、風向き、昼飯の内容、自分の年齢と職業と収入、1万2千円の靴、真夜中の電話と胃の痛みとベランダの手すりに浮いた赤錆。そうした雑多で無秩序な事実や断片的な印象をひとまとめにして、我々はそれを現実と呼ぶ。そう呼ぶほかにどう呼んでいいかわからないからだ。現実は夢の一部なのだと、荘子は言った。確かに胡蝶が荘子なのか荘子が胡蝶なのかは誰にも分からない。 こういうわけのわからないものは相手にしない方がいい。私は普段から、なるべくこいつを直視しないように心がけている。 ── 小田嶋隆『我が心はICにあらず』より。
|
なんていう(^O^)、そんなわけわからない、無秩序なものが「現実」だ。
そもそものところで考え直してみよう。
「3人に4個ずつミカンを配る」
この言葉の脅威を。
「3人」といった場合、一体、何が3つあるのか。山田太郎と呼ばれているちょっと冷めていて友達の少ないネトウヨ気味の高校生と、山本花子と呼ばれているヒョウ柄の服と噂話を好む世話好きの小太りのおばちゃんと佐藤ヒロシと呼ばれる、酒を飲むと学生運動で逮捕されたことを武勇伝として何度も語るだけの団塊男(離婚歴あり)は、一体何をもって「なかま」と認められるのか。ポチと呼ばれ四つ足で歩いているものはどうしてこの中に含まれないのか。
どれ1つとして同じ形のものがない、黄色い丸いものをどうして「なかま」と認め、「4つ」の中に入れることができるのか。そこに「紫の丸いものの集まり」はどうして含まれないのか。
そして数学は、その抽象化のあと平均を出したりあるはずのない「足りない数」を導き出したりする。
捉えようのない、一瞬一瞬で変化する、どこででもそれぞれに存在しなにひとつ同じものはない「現実」というシロモノを、分解して分類し、人間の理解できるものとして扱えるようにするのが「抽象化」であり、その最たるものが数学や算数だ。
その抽象化の作業に、どうしてまだ「現実」の影を引きずらせようとするのか。
……なんてことを考えるのだけどもなあ。
あらら、ただブログのエントリを紹介したかっただけなのに。
とはいえ「単位」自体はどうしてもくっついてくるのかな。
突然食いたくなったものリスト:
- クリスマスケーキ
- 鴨せいろ
本日のBGM:
Beginner /AKB48
1 個のコメント
以前コメントした気がしますが、私は小学校3年ぐらいから算数が嫌いになりました。
特に足し算に意味があるのか?とか、嫌いになる前にどうにか、九九を覚えたので、今助かっていますが…。
(今だ、引き算は好きなのですが…。)
・・・要は、金儲けは嫌い、と云うことですが…。
私は世の中のモノゴトを(中学校のある時期から)今まで、
粒子で捉える思考で正常を保って来ました。
この頃、弦の考え、素粒子の考えでも、世の中が成り立つ、とのイメージがやっと捉まえられるようになり、
今、それでも、世の中のモノゴトが全て捉えられるのか?
検証している所です。
数学とは、定義であり、ものごとを抽象化して考え抜けるか、のことと思っています。
そのためには、<「単位」自体はどうしてもくっついてくる>ように思います。
「単位」とは、定義そのものように思われます。