落語は一日にしてならず

 先日(2009/06/02)の日経の「文化」に桂春団治が「落語は一日にしてならず」という文章を寄せていた。

 戦後、父であり師匠でもある二代目春団治をはじめ、前世代が次々と他界し噺家が10人くらいになって「死んだ」とまで言われた上方落語界にあって、その復興に努め、後に「四天王」と呼ばれる4人(桂春団治、桂米朝、笑福亭松鶴、桂小文枝[後の文枝])に芽生えた連帯感などについて語っている。

「とにかく落語家の数を増やそう。競争相手が増えればその分活気づくと思い、どんどん弟子を取りました。口には出さんでも、4人とも同じ思いやったと思います。団結するほかないから仲の悪くなりようがなかった」

 これが、今の上方落語界の空気を作り上げたのだろう。

 で、この文章の中で、彼が「演じていて一番楽しい」という「代書屋」というネタは桂米朝に教えてもらった(そして褒めてもらった)と書いてあり、へえええ、と思った。この世界では常識なのかもしれないが、私は知らなかったので。

 まあしかし、ほんとは驚くことは全くなくて。
 この「代書屋」というネタは米朝の師匠である米團治が作ったネタだ。

#本人が落語家を一時期廃業して代書屋をしていたのだと。
##ちなみに「米團治」の名跡は米朝の息子(前「桂小米朝」)が先日襲名した。

 このネタが春団治に伝わるとすれば、米團治⇒米朝⇒春団治というルートを考えるのがごくごく自然な流れだろう。

 米朝が語るところによると、彼が直接師匠(米團治)から口伝えに伝授してもらったネタは6本しかなく、この「代書屋}も師匠の口演を端で聞いていて、それを覚えてヨソでやりましたと報告すると「ほなやってみい」となり、そこでちょこっとダメなところを指摘してもらうくらいだったそうな。

#またこの文章の中で春団治は師匠(父/二代目春団治)から直接教わったネタは「祝のし」だけだと語っている。しかも病床にあった師匠から筋だけ聞いたので細部はかなり違うという。

 とすれば春団治版「代書屋」は米團治版「代書屋」ではなく米朝版「代書屋」からの直接コピーということになる……が、やっぱりこれは全く同じではない(ほぼ同じだけども)。

 確か以前、黒猫亭さんのところだったかで、江戸の落語は(だったかな?)一字一句コピーするところから入る、といったような話があったようにも思う(今探してもちょっと見つけられなかったんだけども)。これもまた、「話芸」の1つのあるべき姿のようにも思える。

 このあたりが江戸と上方の落語の大きな違いなのかもしれない。
 前のエントリ(「深い意味はないのだけれど」)で紹介した「千両みかん」の米朝版と枝雀版があまりに違うことを思い出してもらいたい。

 江戸の落語だと、師匠の口演を横で聞いて覚えてそれを高座にかけてから事後報告をし、そのあと「ほなやってみ」と稽古をつけてもらう、という大ざっぱなやり方は、あまりなさそうな気がする(気がするだけだけども)。

 こういう違いを感じながら黒猫亭さんのところの「盲亀の浮木」というエントリを読むと、腹にストンと落ちてくる。
 ここで黒猫亭さんは東西の「百年目」というネタを題材に、東西の落語界の師弟関係の違いについて述べられている。

 「百年目」というネタは、堅物で通っている番頭が陰で忍んで道楽遊びをしていて、それを旦那に見られてしまうという話なのだが、遊びがバレてから旦那に呼び出されるまでの間の番頭の懊悩具合が1つの見せ場になっている。

 ところがこの場面が、(六代目)三遊亭圓生と(三代目)桂米朝では随分と聞き手に与える印象が違うのだと。そしてここから黒猫亭さんは、両者の「旦那⇔使用人」の関係を両落語界の「師匠⇔弟子」の関係になぞらえて解釈している。
 

ただ、旦那の説教の組み立ては米朝版よりも論理的でわかりやすい。米朝版を聴いていていつも不審に思っていたのは、結局旦那は番頭にどう謂うふうに心懸けて欲しいと伝えたかったのかが今ひとつはっきりしないところで、圓生版・米朝版ともこの噺では番頭以外の手代や丁稚がダメすぎなので、米朝版の旦那の説教では迂遠にすぎて取りようによってはもっと厳しく教育してくれと言っているようにも聞こえる。

勿論、赤栴檀と難莚草の喩えから考えれば、ガミガミと小言で締め附ける一方ではなくもう少し下の者にも情けを掛けて羽根を伸ばさせてやれと謂う意味であることはわかるのだが、この説教の論旨と謂う意味では圓生版のほうが格段にわかりやすく筋道が立っている。米朝版では、恐縮する番頭を嬲る旦那の話術や人物描写のほうに重点が掛かっているので、割合説教としてのロジックの運びが遠回しである。

ただこれも善し悪しで、米朝版のしんみりした聴かせ所と謂うのは、親旦那と番頭の関係性が文字通り疑似家族として捉えられているところから来るもので、そこから逆算して番頭の心情が描出されている。番頭にとって、旦那は主人であると同時に父親でもあるわけで、一二の歳で奉公に来るなり寝小便の粗相をした稚ない頃の番頭を、潔癖性のおかみさんが追い出すと息巻くのをまあまあと宥めて手ずから灸を据えていたりする。

これを圓生は「何処か見どころのある奴」だと思ったからだと説明しているが、米朝は別段番頭が商人として才能があるとかないとか一切触れていない。つまり、寝小便をしようが不器用だろうが薄汚かろうが、一旦縁あって奉公人として置いた子なのだから、格別の不始末をしでかさない限り親身になって世話をしてやったのである。

(略)

これは、圓生一門の師弟関係と米朝一門の師弟関係の違いにも顕れているのではないかと思うのだが、圓生の一門は芸道を追及する虎の穴みたいな印象で、冷遇された弟子の裏切りや離反が頻発し、家族的な温かさは微塵も感じられない。一種の苛酷な実力主義で、見どころのある人間は自分に服従する限り目を掛けて丹精してやるが、能力のない人間は容赦なく切り捨て冷酷に疎んじて、遂には死に追いやるような冷たさがある。

対するに、米朝の門派を視ると、噺家としてはもう一つのあの桂ざこばが総領弟子と謂うか大番頭として大面で一門を取り仕切り、師匠に対しても遠慮なくズバズバと直言しているのであるから、米朝一門は職能的専門家集団であると同時に家族的共同体でもあるのである。

昨日今日の俄があまり聞いたふうなことを言うと、古参の事情通な愛好家の方に鼻で笑われてしまうが、たとえば商売人の家に素性の知れない不器用な子供が引き取られてきたとして、家族同様に面倒をみて一人前にしてやるのを自然なことと感じて客にもそれで通じると感じるのか、それとも何か取り柄があると見込んだからと謂う理由附けを施さないと説得力がないと感じるのか、それは話者の共同体についての感覚に依拠すると考えても満更的外れでもあるまいと思う。

米朝は不出来な弟子を取ったとしても同じように面倒をみてやるのが自然だと感じているのだろうし、圓生は芸を学びに来ている以上は出来の悪い弟子に手数を掛けるのは無意味なことだと感じていたのかもしれない。何の能もない者を、単に引き取ったからと謂うだけの理由で、配偶者の反対を押し切ってまで育ててやるのは嘘臭いと考えていたのかもしれない。

 
#引用が長くなって恐縮だが、まさに「なるほど」だった。みなさんにも是非本文(「盲亀の浮木」)を読んでいただきたいと思う。

 これらの違いが圓生、米朝の人間性に起因するのか、あるいは春団治のいうように、「競争相手が増えればその分活気づくと思い、どんどん弟子を取りました」という、上方落語が宿命的に負わされた境遇から来るものなのか……いや、その両方なのだろうな。

 黒猫亭さんが最近落語を聞くようになったのは私の影響だと書いていただいたのだけども、エントリを読ませていただいている限り、その「読み」の深さに頷くばかりで、自分がただダラダラと噺を右から左へと聞き流しているだけだったのだと恥ずかしくなってしまう。

突然食いたくなったものリスト:

  • 苺大福・桃大福

本日のBGM:
陰獣 /人間椅子





1 comment

  1. ●再アップにあたって

    このコメント欄はえらく長くなったので、再アップでコメント欄を再現するのが面倒。(^O^) なのでコメントをそのままずらっと並べます。根性のある人は読んで下さい。

    COMMENT:
    AUTHOR: 管理人
    URL:
    DATE: 06/04/2009 04:12:06 AM
     あれれ、えらく中途半端なままエントリに上げちゃったなあ。

     要は、この「ユルさ」加減が上方落語特有のもので、その原因は上方落語の師匠方の性格、そして戦後上方落語の置かれた窮状(と隆盛)の歴史にあるのではないかと。

    —–

    COMMENT:
    AUTHOR: 黒猫亭
    URL: http://kuronekotei.way-nifty.com/nichijou/
    DATE: 06/04/2009 03:48:57 PM
    >hietaroさん

    ああ、hietaroさんが落語の話題を振ってくださると有り難いなぁ。また長くなりますが、宜しかったらお附き合いください。

    >>確か以前、黒猫亭さんのところだったかで、江戸の落語は(だったかな?)一字一句コピーするところから入る、といったような話があったようにも思う(今探してもちょっと見つけられなかったんだけども)。

    すいません、どうしても長話になるので検索性が悪くなってしまいます(笑)。この機会に、師匠格の芸人から弟子に噺が伝わるシステムを、オレが調べた範囲で纏めさせて戴きますね。ソースは主に、NHKの「ぐるっと関西おひるまえ」のミニコーナー「桂よね吉の落語のいろは」の動画です。

    噺家を志す場合、入門が許されると、まず師匠宅への住み込みで二、三年の内弟子生活を送ります。この間は噺の伝授よりも基礎固めが主眼で、師匠やお内儀の身の回りの世話やお使いの用事をしっかりこなしたり、下座で囃子方を務めたりするわけで、マトモにやると睡眠時間が四時間くらいしかないようなハードな生活みたいですが、その中から何とか時間を捻出して師匠から何本か噺を聴き取ります。

    よね吉の場合、師匠の吉朝から内弟子時代に一〇本の噺の稽古を附けてもらったそうですが、これは師匠によっては二、三本だったり、事によっては一本も教わらなかったりするわけで、一〇本と謂うのは結構多いほうかもしれません。

    つまり直接の師匠と謂うのは噺を伝えることよりも、まず弟子を教育して噺家としての下地を作るのが役割なわけですね。ですから、米朝が師匠の米團治からあまり噺を教わらなかったと謂うのは、東西を問わず左程異例な事情でもないわけです。ただ、吉朝の直弟子は基本的に吉朝の自宅ではなく大師匠の米朝宅に住み込む習慣になっていたそうですから、この辺はちょっと事情が特殊になりますが。

    また、三代目春團治が師匠で実父の二代目からあまり稽古を受けていないのは、どうも若い頃の三代目はあまり稽古熱心ではなかったようで、しかも二代目は三代目の入門から僅か三年後に心臓弁膜症で病床に就いていますから、満足に稽古を附けられる状態ではなかったのではないかと思います。ウィキによると、米朝の目には不真面目に見えていた若き日の春團治ですが、他の師匠から口授を受けた噺は七〇席近くあったそうですから、父親の病気と前後する形で真面目に稽古する気持ちになったのかもしれません。

    さて、数年間の内弟子時代が終わると、これはオレも識らなかったんですが、何処の師匠に稽古を附けてもらっても構わないんだそうです。林家だろうが笑福亭だろうが何処の師匠でも構わない。楽屋を訪ねてきちんと対面で申し入れをして、許されると具体的に日にちを決めて無償で噺を口授してもらえる、そう謂う仕来りになっているそうです。勿論、この段階で断られる場合もありますから、必ず稽古を附けて貰えると限ったものではありませんが、特別の事情がない限り教えてくれるものだそうです。

    実際「落語のいろは」で紹介されていたのは、桂派のよね吉が林家染丸から「稽古屋」を口授される場面でしたが、要するに内弟子時代と謂うのは、余所の師匠のところに稽古に行っても師匠の名を辱めることなく一人前に噺を聴き取れるまでに下地を仕込む修行時代と謂う位置附けなのだと思います。

    この際には既述の通り一字一句違わず正確に口授を受けるわけで、その師匠のやった通りに噺を覚え込み、何回かに区切って少しずつ覚えていって、最後にゲネプロをやってその師匠の許可が下りれば、晴れて高座に掛けても構わないわけです。

    この稽古と謂うのも、伝統的なスタイルだとメモとか録音は御法度らしくて、飽くまで口伝えで覚えるのが基本的な稽古スタイルだそうです。記録に頼るのではなく、集中して耳から入れて身体で覚えるべきだと謂うのが伝統的な考え方なのですね。

    そうは謂っても人間の記憶力なんて限界がありますから、便所に立った隙に大急ぎで今覚えた分をメモったりするらしいですが(笑)、これは米朝も酒の誘いに託けて古い師匠から噺を聴き取ったりする場合、便所や喫茶店に駆け込んでメモを纏めていたようですから、とにかく口授を受ける師匠の前では記録を録ってはいけないもののようです。

    とまれ、そうだとすると、それまでオレが考えていたように、噺家の一門は一門の中で噺を承継していくだけのものではなく、余所の流派の噺を取っても構わない、寧ろそれが当たり前だと謂うことになりますから、師匠と弟子の関係は芸統の承継的な部分の重要性よりも、職業養成上の責任関係のほうが重要だと謂うことになります。

    師匠にとって弟子は、噺を伝える相手と謂うより、芸の基本を仕込み、公私の相談に乗り、何かあったときに口を利いてやる、そう謂う相手だと謂うことで、そのようにして面倒を看てやった弟子が晴れて一本になると弟子を取り、また同じように面倒を看て育ててやる、そう謂うふうにして噺家と謂う専業集団が世代を重ねて維持されていくもののようです。

    つまり、噺家が真打ちになって弟子を取ると謂うのは、自身の芸を伝える目的でやるものではなく、一種芸人に課せられた後進育成システム上の義務のようなもののようですね。真打ちに昇進したのにいつまでも弟子を取らないと謂うのは、そう謂う意味で周囲から批判を受けるわけですね。自分もまたそう謂うシステムの下に無償で面倒を看てもらって一人前にしてもらったのに、その恩恵を落語界に還元していないわけですから。

    たとえば、上方でも関東でも落語家の協会団体からの脱退や離反劇がありますが、その際にネックになるのが弟子の存在で、師匠は弟子の将来に対して噺家である以上逃れられない育成責任がありますから、弟子の去就を言い立てて慰留されると、無碍に自分一個の意志を通すわけにはいかなくなるわけですね。関東の落語協会分裂事件でも、新協会発展の鍵を握る古今亭志ん朝は、弟子の将来を引き合いに出して説得され断腸の思いで脱退を撤回しています。

    師匠と弟子の関係性と謂うのは大略このようなもののようですが、では、噺の承継とか演者ごとの工夫と謂うのはどこで出て来るのかと謂えば、おそらく稽古を受けてその師匠のお墨付きをもらった後のことなのではないかと思います。稽古の段階では、とにかくその師匠がやっている通りに出来るようになるのが許可条件で、それが「噺を取る」と謂うことになるわけですね。

    適当に筋だけ覚えてそこに自分の工夫を盛り込んでいくと謂うのは、米朝が旧い噺の復刻に奔走していた当時のように、それ以外の選択肢がない場合だけだったのではないかと思います。口授してくれる師匠がもういない、だから「高座に掛けても好い」と謂う許しをくれる相手もいなくなったわけですから、筋だけを頼りに細部を肉付けしていくと謂う形で復刻したのでしょう。

    そう謂う意味で、落語と謂うのは誰もやり手がいなくなると噺が死んでしまうわけで、生きている噺と謂うのは、口授してくれる師匠がいて、そこから口伝えでリアルタイムの噺として後進に繋がっている噺を謂うわけです。

    まず、正確に先達のやっている噺を覚え込んで、それを土台にして自分の工夫を加えていく、それが基本的な落語の変化のプロセスなのだろうと思います。これはつまり、師匠が演じた通りに正確に出来るようになった段階で、その噺は口授を受けた噺家のものになる、そこから先はどう謂うふうに工夫して変えても好い、と謂うイメージなんではないかと思います。

    ですから、直接の師匠に附けてもらう稽古と、内弟子が明けて他の師匠に附けてもらう稽古では稽古の質が違うのだろうと思います。直接の師匠は、まず素人の弟子を噺家として教育する目的で稽古を附けるのだし、他の師匠は一人前の噺家に噺を伝える為に稽古を附けるわけで、前者はまあ職業訓練の段階だし、後者は職業者同士の情報伝達と謂う形になるのだと思います。

    落語で謂う「稽古」と謂うのは、このような「教育」を目的としたものと「承継」を目的にしたものがあって、さらに噺家が高座に上がる前におさらいする「自主練」もまた「稽古」と呼ぶわけで、一口に「稽古」と謂っても、それぞれ内容が違うわけですね。

    本文で触れておられる「代書屋」の承継関係もそのようなもので、元々は四代目の米團治が創作した噺で、演じ手がその直弟子の米朝しかいなかったから春團治が米朝から聴き取った、そう謂う形ですね。こう謂う形で噺の伝授と謂うのは流派や序列関係とはあまり関係なく自由に行われるわけです。

    ただ、上述のようなシステムを考えると、師匠の口授も許しも得ずに聞き覚えた噺を余所で一度下ろしてから師匠に事後報告をしてダメを出してもらったと謂うのは、実は当時でも行儀の悪いことだったんではないかと思います。四代目米團治と謂う人は、米朝の談によるとかなり変わった人で捌けたインテリだったそうですから、米朝も「ウチの師匠なら大丈夫かも」と内々思ってそう謂う冒険をしてみたのかもしれませんね。

    多分同じソースを参照しておられるのだと思いますが、米朝はちょっと申し訳なさそうに「実はこう謂うことで」と事後報告の形で報告していますから、やっぱり師匠に黙って勝手にネタを下ろしたのは失礼なことだと謂う認識があったから報告したんでしょうね。そこで「いっぺんやってみぃ」と謂うことになったのは四代目の人柄で、つまり米朝の読みが当たったと謂うことなんでしょうね(笑)。

    それから、公平を期す為にちょっと申し添えておきますと、六代目三遊亭圓生と謂う人は昭和を代表する関東落語の大名人なんですが、この人はちょっと他の関東の噺家と比べてもかなり人間に癖があって、また残っている証言も圓生に冷遇された弟子や落語協会分裂事件の関係者の告発が多いので、ちょっと苛酷な人柄が強調されて伝わっている弊はあります。

    一口で謂って、その至芸は尊敬されているが上下を問わず人格的な人望や信頼のなかった人ですね。なので、圓生一門の師弟関係が関東落語の代表的な師弟関係とも謂えないわけで、ここまでギスギスした一門は東西を問わずかなり特殊な例だと思います。

    米朝一門の関係性と謂うのは、或る種上方落語界の気風を象徴している部分があると思いますが、圓生一門の関係性が関東落語界の気風を象徴していると謂うわけではないですから、そこで対称性が破れている比較ではあることをお断りしておきます。

    >>要は、この「ユルさ」加減が上方落語特有のもので、その原因は上方落語の師匠方の性格、そして戦後上方落語の置かれた窮状(と隆盛)の歴史にあるのではないかと。

    これはその通りではないかと思います。そして、その「ユルさ」の裏には一種上方独特の合理性や近代性があるんじゃないかと謂う気がしますね。そして、以前にもそう謂うお話が出ましたが、寧ろ「上方落語は滅びた」と謂う断絶期があったことで、明治生まれの権威者の旧弊な保守性が一旦途絶え、米朝の世代の合理性や近代性が自由に発揮出来たと謂うことなのではないかと思います。

    関東の場合、やはり落語の血統が一度も途絶えていないことが逆に保守性を温存する結果に繋がったのではないかと思いますし、上方のような捌けた合理性が定着するには今の世代がもう少し出世しなければならないのではないかと思います。
    —–

    COMMENT:
    AUTHOR: 管理人
    URL:
    DATE: 06/07/2009 12:18:51 AM
    >黒猫亭 さん

    丁寧な御説明ありがとうございます。

    なるほど、この話は江戸の落語ではなく、まさに米朝一門の話だったのですね。(とはいってもこれは米朝一門の特徴と言うよりは、やはり落語家はだいたいはこういう弟子の育成方法を採っていると)

    #あ、ご存じとは思いますが、上方落語には真打ち制度はありません。

    >米朝一門の関係性と謂うのは、或る種上方落語界の気風を象徴している部分があると思いますが、圓生一門の関係性が関東落語界の気風を象徴していると謂うわけではないですから、そこで対称性が破れている比較ではあることをお断りしておきます。

    なるほど、了解です。

    >適当に筋だけ覚えてそこに自分の工夫を盛り込んでいくと謂うのは、米朝が旧い噺の復刻に奔走していた当時のように、それ以外の選択肢がない場合だけだったのではないかと思います。口授してくれる師匠がもういない、だから「高座に掛けても好い」と謂う許しをくれる相手もいなくなったわけですから、筋だけを頼りに細部を肉付けしていくと謂う形で復刻したのでしょう。

    この部分について、米朝たちにはいくらか負い目があったのかもしれないな、とも思います。「負い目」といっても裏を返せば誇りになるのだと思いますが。少なくともそういうふうに覚えたネタに関しては、原形を忠実に再現していない分、後進に対して「一言一句正確に覚えて継承せよ」と言い切れないのではないかと。いやこれは確証があるわけではなく、人情としてそうなんじゃないだろうかという推測なのですが。

    >これはその通りではないかと思います。そして、その「ユルさ」の裏には一種上方独特の合理性や近代性があるんじゃないかと謂う気がしますね。そして、以前にもそう謂うお話が出ましたが、寧ろ「上方落語は滅びた」と謂う断絶期があったことで、明治生まれの権威者の旧弊な保守性が一旦途絶え、米朝の世代の合理性や近代性が自由に発揮出来たと謂うことなのではないかと思います。
    >関東の場合、やはり落語の血統が一度も途絶えていないことが逆に保守性を温存する結果に繋がったのではないかと思いますし、上方のような捌けた合理性が定着するには今の世代がもう少し出世しなければならないのではないかと思います。

    ということなんでしょうね。
    とはいえ、上方の場合は吉朝、枝雀亡き今、四天王後の「巨星」が不在の時期がもう少し続くのかもしれません。しかしまたその後、再び面白い時代が来るのだろうな、とも予測(期待)しています。

    あと、上方と江戸の違いといえば、寄席の力の強さというのもあるのかもしれない、と思うようになっています。
    江戸の落語協会の分裂騒動の際にも各寄席の影響力は大きかったと聞きます。
    上方の方は、ほんの数年前まで落語の定席はありませんでした。彼らの多くはホールを借りての落語会や、吉本、松竹などの興業会社経営する劇場に出ていたわけで、このあたりの力関係が、上方と江戸では違うようです。

    —–

    COMMENT:
    AUTHOR: 黒猫亭
    URL: http://kuronekotei.way-nifty.com/nichijou/
    DATE: 06/08/2009 05:54:10 AM
    >hietaroさん

    >>#あ、ご存じとは思いますが、上方落語には真打ち制度はありません。

    ああ、うっかりしてコロッと忘れておりました(笑)。そう謂えば、何でも一旦途切れたきりになっているそうですね。調べてみると、「上方落語は死んだ」と言われた頃に一度廃れて、それきり実質的には復活していないそうですね。真打制度の有無も、やっぱり落語界の雰囲気の違いに関係しているのかもしれません。

    >>この部分について、米朝たちにはいくらか負い目があったのかもしれないな、とも思います。

    たしかにそう謂う心情はあったのかもしれません。米朝落語全集の解説を読むと、おおよその筋書きだけを聞いて、あちこちから材料を集めて一本の噺の形にした演目も結構あるようですから、そうなるともう新しい噺と謂っても差し支えないでしょうし。こう謂う演目については、「わしのやる通りにやれ」とは言いにくいでしょうね。

    ただその一方では、米朝の修業時代は今の上方落語界のように教えを請うべき現役の師匠が大勢いるような状況にはなかった、従って独力で奔走して史料を収拾し聴き取りを重ね自分の頭で考えねばならなかったと謂う孤独感もあったでしょうから、先人から直接承継されている噺の細部に凝らされた知恵を伝えると謂うことには熱心な部分もあったことは忘れられてはならないと思います。

    たとえば、これはやっぱりネットの動画で米朝一門のドキュメントを見たのですが、一門会で米朝がざこばの「らくだ」を講評していて、紙屑屋が酔っ払うプロセスを上手く演じ分けていないと謂うふうに指摘していました。これはご存じかもしれませんが、紙屑屋が長い独り語りの間に段々酔っ払って行くプロセスを、米朝は煮染めの喰い方の違いで表現しているんですね。

    最初そんなに酔いが廻っていない時点では、箸を返して鉢から取り皿に取っているんですが、段々酔いが廻ってくると鉢への直箸になり、泥酔した段階では手掴みで喰うと謂う具合に、仕草がぞんざいになってくる様子を通じて酒の回り具合を表現しているわけです。ざこばはそこまで気が廻っていなかったので、そう謂う仕草一つでいろいろなことが表現出来るのだと教え諭したわけですが、これは二十年以上前の米朝落語全集の口演でも同じように演じているんですね。

    で、オレはドキュメントのほうを先に見ていましたので、これはてっきり米朝の工夫なんだろうと思ったら、解説を読むとこの噺を今在るような大ネタの形に仕立てた四代目桂文吾の型なんだそうで、関東版はこの四代目文吾が三代目小さんに伝えたものだそうです。紙屑屋が酒を呑みながら回顧する長い語りはほぼこの文吾の創案になるもので、文吾の時点ですでに煮染めの喰い方で酔いを表現する演出が出来ていたそうです。

    そう謂う意味で、噺に凝らされた先人の知恵をキチンと承継した上で崩すなり変えるなりするのは構わないが、伝承された知恵それ自体は使命として後進に伝えていかなければならないと謂う意識も強かったのではないかな、と思います。

    また、今でこそ丸くなった米朝ですが、ご存じの通り、弟子たちの証言によると若い頃の稽古の厳しさは苛烈なものだったそうで、手が出ることも稀ではなかったそうですから、自分が積極的に後継者を作っていかなければならないと謂う、hietaro さんが仰る「とにかく落語家の数を増やそう」と謂う意識の時代の使命感には激しいものがあったのだろうと思います。

    たとえば、同じ噺でも米朝版と枝雀版ではこれが同じ噺かと思うほど違いますが、おそらく噺を咀嚼して変えていくこと自体には寛容だったと思うんです。ただその一方で、小米時代の枝雀はやっぱり一頭地を抜く存在だったようで、日頃から芸に対する意識が全然違いますから、覚えが物凄く速かったそうです。つまり、米朝からちゃんと元の噺を受け継いだ上で変えているわけですね。なので、ここは念の為に強調しておきます。

    >>とはいえ、上方の場合は吉朝、枝雀亡き今、四天王後の「巨星」が不在の時期がもう少し続くのかもしれません。しかしまたその後、再び面白い時代が来るのだろうな、とも予測(期待)しています。

    そのような状況を憂えて上方落語界が打ち上げた花火が五代目桂米團治の襲名ですが、これも一つの明るい材料ですね。

    その人柄の軽さからアホボン扱いされている五代目米團治ですが、関東の某大名跡に比べるとちゃんと芸も出来ていますし、華のある陽性の雰囲気を持っているのが良いですね。ざこばや南光からは「人間がごっつ間抜けに出来ている」と小言を言われていますけれど、どうも米朝一門の高弟たちは師匠への崇拝や心酔が強すぎて思い詰めすぎるところがあるように思いますので、あのくらい間が抜けているほうが長生き出来るんじゃないでしょうか。

    たしかに普通なら偉大な父への劣等感と謂うのは実子に課せられた十字架ですが、米朝一門の場合、弟子だって実子に劣らずプレッシャーはあったわけですし、寧ろ米團治の場合は「長男だけどお兄ちゃんがたくさんいた」と謂う微妙に末っ子的な立ち位置ですから、若い頃はさておき、この歳になって過剰に思い悩むことはないんじゃないでしょうか。思い詰めすぎずに、それでもちゃんと使命感を持って自分の芸を磨いていかねばならないと謂う意味では、あのくらい軽い人間に口喧しい番頭がたくさん附いていると謂う状況は好ましいんじゃないでしょうか(笑)。

    >>あと、上方と江戸の違いといえば、寄席の力の強さというのもあるのかもしれない、と思うようになっています。

    これはあるんでしょうね。日常的に落語に接する専門の場があるかどうか、これは結構大きいと思いますし、ハコを提供する席亭の見識が上級の権威として機能しているかどうかと謂う違いもあるでしょう。関東では個々の噺家の芸の評価や名跡の承継に対する席亭の影響力も大きくて、それが関東落語の一種の権威になっていますから、それに相当するものがないと謂うのは大きな違いでしょうね。まあ、それが現在の上方落語の自由な雰囲気にも繋がっているのでは、と思うので、善し悪しですが。

    どうも上方の噺家たちの証言を聴くと、名跡の襲名について関東ほどすったもんだの大事にならないような印象があります。米朝の三木助襲名みたいな生臭い話もありましたが、何となく師匠や大師匠が許せば簡単に名跡が継げるような印象がありますね。それはつまり、上方落語が一旦途絶えて相当大きな名前でも空き名跡のままで、言い出せば故障なく継げる雰囲気になっていると謂うこともあるんでしょうね。
    —–

    COMMENT:
    AUTHOR: 管理人
    URL:
    DATE: 06/12/2009 06:08:09 AM
    >独力で奔走して史料を収拾し聴き取りを重ね自分の頭で考えねばならなかったと謂う孤独感もあったでしょうから、先人から直接承継されている噺の細部に凝らされた知恵を伝えると謂うことには熱心な部分もあったことは忘れられてはならないと思います。

    ああ、これはそうですよね。
    野放図にし放題ではおそらくは上方落語はとっくに凋落していたでしょう。やはり芯がしっかりした上での奔放さなのだと思います。彼らがそのしっかりした基礎を築いてくれたからこその今の上方落語だと思いますし、これは明らかにはっきりとした意図として、しっかりした厳しさが根底にあったのだと思います。

    私も、確か小米朝の米團治襲名のドキュメンタリーだったかで、米朝が小米朝に稽古をつけているシーンを見ました。

    「代書屋」だったのだと思いますが、硯で墨をする仕草があります。これを小米朝は見台(上方落語で使われる、木の台です)の上に硯を置いた見立てでやったんですね。それに対して米朝は、

    「別に硯が見台の外にあってもええんや。見台に囚われんでええがな」

    みたいな一言を発していました。稽古のシーンはこれきりで、すぐに別のシーンに変わってしまったのですが、興味深いシーンでした。

    確かに見台の上に硯を置く位置だと少し窮屈で、せせこましい仕草になってしまいます。

    きっとこの一言は、このネタに限らず演じ方すべてに通じる、見る側以上に演じ手には大きな一言なんだろうなあ、とか思ったり。

    でこういう感覚もまた、米朝がそれ以前の先達から受け継いだものであろうし、それを継承していくのにもったいぶることはない、というところなのだろうなあ、と思います。

    >そのような状況を憂えて上方落語界が打ち上げた花火が五代目桂米團治の襲名ですが、これも一つの明るい材料ですね。

    父が偉大すぎる分、確かにあの性格(と勝手に決めてますが(^^; )は確かに救いですよね。三木助みたいになっちゃわないように……。

    米團治襲名披露公演で最初にやった演目が「百年目」で、この演目を選ぶにあたってはさすがに反対が多かったそうです。

    父の得意演目ですから、「まだお前には無理……」というわけです。私も実際、(テレビで)見てまだまだだと感じました。

    しかしそういう中をあえてこれをやるというのも大したものだし、実際、年代的にはまさにこれから上方落語を背負っていかなければいけない立場にいるわけで、このくらいの気概があってもいいのかなとも思います。

    そういえば今年の初め、三枝⇒文枝、きん枝⇒小文枝 のダブル襲名の誤報を産経新聞がやらかしましたが、このあたりの裏事情はわからないまでも、まあ次に何かあるとしたらそのあたりなんでしょうね。あるいは「松鶴」の名跡がどうなるかというのも大きな話題でしょうか。その時はかなり大きなお祭りになるのだと思います。

    ……なんてことを考えると、例えば笑福亭仁鶴(吉本)の松鶴(松竹)襲名がなかったのは(他にいろんな理由があるにせよ)事務所の絡みは大きかったようですし、上方落語では襲名に関しても寄席や協会よりも、所属事務所の影響力が大きいようです。関東の事情はわかりませんが、こちらほど所属事務所の存在感は大きくないんじゃないでしょうか。

    —–

    COMMENT:
    AUTHOR: 黒猫亭
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    DATE: 06/18/2009 03:31:01 AM
    >hietaroさん

    >>私も、確か小米朝の米團治襲名のドキュメンタリーだったかで、米朝が小米朝に稽古をつけているシーンを見ました。

    >>きっとこの一言は、このネタに限らず演じ方すべてに通じる、見る側以上に演じ手には大きな一言なんだろうなあ、とか思ったり。

    この映像はオレも観ましたが、こう謂うハッとさせられる何気ない知恵に出会うと興奮するんですねぇ。どんな職業にもこう謂う実践的な知恵と謂うのはあるんでしょうが、やはり芸能や芸術の場合は、芸や作品と謂う表現物に顕れるところが一際興味深いです。

    見台の繋がりで謂うなら、「上方落語にあって関東落語にないのは見台と膝隠し、それと張り扇に小拍子」と謂うふうに知識では識っているし、上方の噺家と謂えば出囃子が鳴って高座に上がったら、小拍子をチャッと拍って拍手を鎮めてから口を切ると謂うイメージが強いんですが、実際に米朝落語全集の映像を通して観ると、見台を使っている噺と使っていない噺があるんですね。

    これは何故なんだろうとちょっと疑問に思ったのですが、笑福亭鶴光が何かの噺のマクラで「この見台に膝隠しと謂うのは関東の寄席には置いてまへんねん。そやさかい、関東でやるときは講釈師から借りてくるんです」と謂うふうに言っていましたので、単に上方落語の小道具がない場所で演じたのかな、と思っていました。

    しかし、別のエントリに附けたコメントで触れた「落語と私」によりますと、どうやら米朝は噺によって見台を使ったり使わなかったりするみたいですね。見台以下の四つの小道具は演題によっては便利な見立ての道具になるのですが、たとえば女性を演じる場合には膝の線や膝に置いた手の動きで見せるので、見台や膝隠しが邪魔になると謂うのですね。

    また、普通の寄席のような小さな演芸場では見台と膝隠しで下半身が隠れますが、関西の大型混成演芸場や三宅坂の国立演芸場、またホール落語のような舞台の大きなところでは、両側の客から見台の下が丸見えだし、何より見台を中心とした空間設定が芸を小さくしてしまう嫌いがあると謂うのです。

    この稽古の場面で、小米朝が見台と謂う具体的に存在する物質の空間に囚われていることに対して、「もっと大きいに考えたらええねん」と言っているのは、おそらくそう謂う考察からフィードバックされた知恵なのかな、とちょっと思ったりします。そう謂うふうに考えると、これまで観た数本の映像の中では枝雀が見台を使っているのを見たことがないんですが、それはやはり彼のダイナミックな噺のスタイルと関係があるのかもしれません。

    >>父が偉大すぎる分、確かにあの性格(と勝手に決めてますが(^^; )は確かに救いですよね。三木助みたいになっちゃわないように……。

    三木助や海老名家の御曹司みたいな例に比べると、何だか妙に堅実ではありますね。関東の二世たちは子供の頃からボンボンとして甘やかされて、一般の弟子なら味わうはずの苦労を経ずTVタレントとして注目され楽に世渡りが出来た分、才能や天分があってもちゃんと下積みの苦労や真っ当な修行をしていないところがネックになりますが、小米朝はアホボンなりに割と普通の大人に育っているように思います。

    >>父の得意演目ですから、「まだお前には無理……」というわけです。私も実際、(テレビで)見てまだまだだと感じました。

    あれはやっぱり、実際に歳を取って老成の風格を出せるようにならないと満足に出来ない噺だと思いますし、その点小米朝と謂うか米團治は一般的な尺度で考えても実年齢より若く見えるので、今出来ないのは当たり前のように思います。オレもチラッと観てどうも枝雀みたいなダイナミックな演じ方をしているなぁと思ったんですが、枝雀流で演じるべきネタではないですよね。あの番頭、幾つの年齢設定だよ(笑)。

    流石に襲名披露で下ろしたネタではなくて以前から積極的に演じているようですが、そう謂う姿勢自体は好いんじゃないでしょうか。父・米朝も若い頃は恐ろしくて演じられなかった大ネタを、或る年齢から開き直ってどんどんやるようになって一段成長したようですから、高座で芸を揉んでいくと謂うのもアリではないかと思います。

    >>……なんてことを考えると、例えば笑福亭仁鶴(吉本)の松鶴(松竹)襲名がなかったのは(他にいろんな理由があるにせよ)事務所の絡みは大きかったようですし、上方落語では襲名に関しても寄席や協会よりも、所属事務所の影響力が大きいようです。関東の事情はわかりませんが、こちらほど所属事務所の存在感は大きくないんじゃないでしょうか。

    そもそも米朝の「幻の三木助襲名」も事務所絡みの生臭い話だったようで、名跡を餌に米朝を松竹芸能に取り込もうと謂う裏があったようです。この辺、米朝は「大阪は商都だけあって芸能興行の経営も関東よりも資本家による近代化が早かった」と謂うふうに謂っていて、少々奥歯に物の挟まったような物謂いながら、やはり吉本・松竹の二大事務所の経営方針には反撥を抱いているように感じました。

    二十数年前の著作に書いてあることですから、今はどのような状況にあるのかはわかりませんが、芸能の商業主義化については危惧を表明しています。たしかに、吉本・松竹の近代的な演芸ビジネスは先進的で、関東のように寄席興行の採算性が問題になるようなことはなかったと思いますが、昭和の落語史に与えたこれらの事務所の影響は、決して褒められたものではなかったように思います。

    名跡への介入については、たしか吉本については、初代小米朝こと月亭可朝の改名の件がありますね。何でも自社の所属落語家の名に「小」の字が附いているのが気に入らないと謂うことで、当時の小春團治と小米朝が改名することになったのだとか。
    —–

    COMMENT:
    AUTHOR: 管理人
    URL:
    DATE: 06/20/2009 04:54:00 AM
    >黒猫亭 さん

    実は私が高校の時、学校行事(文化の時間、みたいな感じだったのかな)でうちの学年でホールを借り切って、米朝一門に来てもらったことがあります。

    その時は米朝は落語をせず、やってくれた中で一番香盤が上だったのは桂南光(当時はまだべかこだったような)だったのは残念でした。確か米朝の直接の弟子は1人も来ず、枝雀の弟子ばかりだったように思います。枝雀も来ませんでしたが。

    で、米朝は何をしたかというと、まさにその、見台がどうだとか、扇子がどうだ、出囃子がどうだという話をしてくれました。……しかしほとんど覚えていません。(^^;

    はっきり覚えているのは「こんなにたくさんの弟子が噺をしなくても、米朝1人がやってくれたらそれでいいのに」という残念な気持ちと、この時の雀三郎の噺が全くダメだった(受けてはいましたが)ので無性に腹が立ったことですねえ。

    でも確か、見台を置くのは上方落語の特徴ではあるが、必須というわけでもない、というような話をしていたようにも思います。

    枝雀の見台についてですが、もちろん見台を使うネタもあります。
    でも圧倒的に少ないようにも思いますね。仰るとおり、枝雀のスタイルなのかもしれません。あるいはそういうネタを選んでいたのか。このあたり、あまりよくわかっていませんが。

    >流石に襲名披露で下ろしたネタではなくて以前から積極的に演じているようですが、そう謂う姿勢自体は好いんじゃないでしょうか。父・米朝も若い頃は恐ろしくて演じられなかった大ネタを、或る年齢から開き直ってどんどんやるようになって一段成長したようですから、高座で芸を揉んでいくと謂うのもアリではないかと思います。

    そうなんでしょうね。今回の襲名披露でのネタはきっと酷評もあったことだと思いますが、これを続けていけば、このネタが板について見えるようになる時が、彼が名人になった時でしょうし、なんというか、わかりやすい目安だと思います。(^O^)

    —–

    COMMENT:
    AUTHOR: 黒猫亭
    URL: http://kuronekotei.way-nifty.com/nichijou/
    DATE: 06/20/2009 05:03:22 PM
    >hietaroさん

    >>実は私が高校の時、学校行事(文化の時間、みたいな感じだったのかな)でうちの学年でホールを借り切って、米朝一門に来てもらったことがあります。

    いいですねぇ、オレは田舎の人間だからそう謂う機会は一切ありませんでした。たしか幼少期に中学校の新校舎落成イベントでこまどり姉妹が来たくらいでしたかね(笑)。

    >>その時は米朝は落語をせず、やってくれた中で一番香盤が上だったのは桂南光(当時はまだべかこだったような)だったのは残念でした。確か米朝の直接の弟子は1人も来ず、枝雀の弟子ばかりだったように思います。枝雀も来ませんでしたが。

    南光のべかこ時代と謂うと、九三年以前のことですね。まあ学校主宰のイベントだと謂うことでギャランティの関係とかあったのかもしれませんし、米朝が呼べただけでも僥倖だったのかもしれませんが、米朝の言によると、この時期の枝雀は師の米朝よりギャラが高かったそうです。

    もしかしたら人気絶頂の枝雀を呼ぶつもりだったのがスケジュールとかギャラか何かの都合で呼べなかったので、枝雀の弟子と、枝雀の名代で大師匠の米朝が来たとか謂うことはないですかね。

    ABCの「米朝よもやま噺」のアーカイブによりますと、どうも小米朝が入門した昭和五三年頃から米朝は身体を悪くするようになって、その一方で一番弟子の枝雀のほうが台頭してくる形になったようですね。で、この頃一旦自分の体力や芸に限界を感じるようになって、もうしんどなってきた、と弱気になっています。おそらくhietaro さんの学校で米朝一門を呼ばれたのは、そう謂う時期だったんではないでしょうか。

    http://abc1008.com/beicho/story/060.html

    脳梗塞で倒れる前の数年間の米朝も、すでに一門会では落語をやらずに弟子の司会で芸談を披露するスタイルだったみたいですから、枝雀の全盛期も半隠居みたいな意識だったのかもしれません。五十代からすでに体力の限界を感じていたと謂うのですから、今の感覚で考えると年齢的にはちょっと早いような気もしますが、病気もしていますし、何より惣領弟子の枝雀が飛び抜けた存在になったので安心した部分もあったのかもしれません。逆に謂うと、枝雀の没後は相当無理をして老骨に鞭打つような意識で頑張っていたと謂うことなんでしょうね。

    >>今回の襲名披露でのネタはきっと酷評もあったことだと思いますが、これを続けていけば、このネタが板について見えるようになる時が、彼が名人になった時でしょうし、なんというか、わかりやすい目安だと思います。(^O^)

    ネットでブログを検索すると、まさに噺それ自体は酷評ですねぇ(笑)。皆さん、好意的には捉えていますけれど、やっぱり芸はまだまだだね、と。いやもう、父親は今の米團治くらいの歳にサンケイホールで六日間興行をやって連日満員にしてますから、最初から格は全然違うんですが(笑)、父親と違って体力や健康には恵まれているみたいですし枝雀や吉朝とは違って長生きするでしょうから時間はあると思います。
    —–

    COMMENT:
    AUTHOR: 管理人
    URL:
    DATE: 06/22/2009 03:18:03 AM
    >黒猫亭 さん

    米朝がやらなかったことに関しては、まさにギャランティの問題であると授業中にある先生が暴露していました。(^O^)

    枝雀を呼ぶつもりだったのだったら、確かにちょっと残念でしたね。

    当時でも米朝の大きさは知っていましたが、それでも枝雀の方が見たいと思っていたの正直なところでした。
    (そういえば、後に「関西のメタルファンは枝雀が好き」という話をメタル仲間としたことがありますねえ)

    ただ、ほとんどの学生が落語に興味がなかったですから、実際に米朝がやってくれたとしたらそれはそれで申し訳なかったような気もします。(^^;

    こちらは「あの程度の奴らしかやらなかった」と思っていたのですが、あちらはあちらで「あの程度の客だから」ということにもなるのでしょうし。(いや、そういうことでこういう演者構成になったわけではないでしょうけども(^^;)

    米團治については、ほんと、健康であれば時間はあるのだから、是非精進して、上方落語を引っ張っていく存在になってもらいたいと思います。
    ただ、なまじ他にもいろいろ趣味なり才能なりがあるものだから、そのあたりがどう影響を及ぼすのかが不安ではありますが……。

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