先日、ある本をパラパラとめくっていると、興味深い記述に出くわした。
おれが郷里で過ごすあいだ、なぜ野菜炒めと縁がなかったのか。考えているうちに台所の火が気になった。野菜炒めのためには、中華鍋やフライパンつまり「炒め鍋」が必要だ。とうぜん、油もいる。それは実家にもあったし、使っていた。 問題は火の条件だ。一気に炒め上げるため、強い安定した火力があったほうがよい。炭火では、かなり厳しい。薪の火? そうですねぇ、いろりやかまどの作業になるので、強い火は可能だが、火力の調整や安定が、かなり厳しい。やれないわけじゃないが難しい。 おれが子供のころ、カレーライスはすでに「おふくろの味」といわれる料理になっていた。だけど野菜炒めはなかった。そのワケは、火が関係するように思われる。いろりやかまどと七輪による薪と炭の時代には、炒め鍋と油があっても、野菜炒めは広がりにくかったと考えられるのだ。 一九四三年生まれのおれが十歳ごろまで、わが家は薪と炭だった。そこへ石油コンロが普及したのだが、薪や炭に完全にとって変わるほどではなかった。中学生のころからプロパンガスの普及が急速で、中学高校時代に激変した。薪や炭は、しだいに使われることがなくなって、暖房も含めてガスと石油に替わっていった。電気釜も使うようになった。 おれは学生になって料理をつくるようになると、ヤキメシや油味噌をつくった。 これはフライパンを使い、親から手ほどきを受けた。ガス以前から親がやっていた料理だった。 |
これは『大衆めし 激動の戦後史: 「いいモノ」食ってりゃ幸せか?』という本。著者は大衆食堂などの著書が多く、「大衆食堂の詩人」と呼ばれているそうだ。
この本をパラパラとめくっていて、たまたまこの1節が目にとまりメモした。だから前後の文脈は追えていない。
にしても、なかなか興味深い部分だ。
以前、ブログやtwitterで黒猫亭(@chronekotei)氏とこの周辺の話をしたことがある。
例えばこういう↓感じ。
この中で、こういう↓やりとりをしている。
@hietaro 炒め物自体、一般家庭に普及するに当たっては燃料の問題大きいはずなんだよね。あんなちょっとの時間しか火力が必要のないものって、ガスが普及していないと考えにくい。
— knt(黒猫亭) (@chronekotei) 2016年1月3日
この本の記述はまさに炒め物と燃料の関係について語っている部分だった。
そしてまた興味深いのは、「野菜炒め」は燃料の関係でガス以降になったということだが、ヤキメシについては「ガス以前から親がやっていた料理だった」ということ。
ガス以前の、「炭火では、かなり厳しい。薪の火? そうですねぇ、いろりやかまどの作業になるので、強い火は可能だが、火力の調整や安定が、かなり厳しい。やれないわけじゃないが難しい」という条件の下でもヤキメシは作ったと。
もちろんその「ヤキメシ」は「チャーハン」ではない。
ヤキメシは炒飯と呼ばれたりするが、おれにとっては、炒飯とは違う。近年の炒飯で強調されるような米粒がパラパラになる炒め方ではない。油味噌のような要領だった。冷やめしを油で「焼く」というより、じんわり温める感覚で、しっとりな仕上がりだ。そこにバターをチョイと効かせるとうまいこと。これも炭火で可能だったし、炭火だからこそ、しっとりな仕上がりだったといえるだろう。 |
とまあこんな感じで、ちょうど黒猫亭と話した内容の傍証になるような思い出話が展開される。
もちろん1人の話であるしこれでどうこうと言うわけではないが、燃料の普及と家庭料理の関係という意味で、なるほどと思える証言だった。
突然食いたくなったものリスト:
- きつねうどん&かやくご飯
本日のBGM:
Vehicle /TOPS
TOPSはいいねえ。この曲を収録したアルバム『VEHICLE』は洋楽カバーばかりのアルバムで、曲のアレンジ、訳詞、そしてもちろん演奏も素晴らしい。いいヴォーカルだしねえ。昔録ったカセットテープしかなくてCDを探していたんだけど、先日ようやく手に入れた。
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