1本の串のドラマ

 最近、ネット上で話題になってたこと。
 
 おそらくはこれを読んでる方もご存じだろうとは思うが、「焼鳥を串から外して食べるか」という話。
(とはいえネットの話題なんてすぐに忘れられるから、数か月後にこれを読んだ人にはさっぱりわからない話かもしれない)
 
 発端はある焼鳥屋さんのブログ記事。
 
焼鳥屋からの切なるお願い


上記ブログより


 写真の看板でだいたいわかるけど、リンク先のブログ記事はこれより若干情報量が多いので、この話題を知らなかった人は一度行って読んでみてほしい。
 
 これがネット上で結構話題になり、それを採り挙げる記事は「賛否両論」「炎上」などという言葉で表現していた。
 ググッて上位に来る記事あたりを挙げておこう。
 
「焼き鳥は串から外さないで」 飲食店の訴えに賛否両論(朝日新聞)
焼き鳥は串から外さないで!店主の「お願い」で論争勃発(Excite Bit)
「焼き鳥は串から外さずに食べて欲しい」 専門店の「願い」に沸き上がった反発と賛同(J-CAST)
【炎上】「焼き鳥を串から外して食べないでください」 焼き鳥屋・鳥一代が焼き鳥ではなく店を焼いて意識他界系(netgeek)
 
 少し見る限りでは、基本的には「ネット上の炎上騒ぎは収まらず「焼き鳥を串から外すのは客の自由」という声が優勢」(netgeek)という感じのようだ。そう書いたnetgeek自体、記事の結びの言葉を見てもそちらのスタンスに立っているように見える。
 netgeekのこの記事には他にも、「どう食べようが客の勝手」「店の都合を押し付けるな」「どんだけ意識高い系なんだよ」といったネット上の意見も紹介されている。
 
 私もこの話題を見たとき、一瞬、そういう感情が湧いた。
 人間、食べ物関連で他人にイチャモンをつけられるとリクツ抜きで腹が立つものだ。
 
 ただ、この話題をふと思い出したとき、最近考えていることと結びついて、いや、そういうことじゃないよなあと思い始めた。
 
 私が何度もここで書いている「麺はすするとおいしい」という話。
 日本の麺はすすっておいしいように進化してきた、スパゲッティはフォークでくるくると巻いて塊で口に放り込んで噛んで食べておいしいように進化してきてきた……だから日本の麺はすすって、スパゲッティはフォークで食べる(べき)と書いてきている。
 「べき」をカッコに入れたのは、「おいしいからそうすべき」とは言えないのだろうという留保が含まれている。食事というのは必ずしも「おいしく食べる」だけが目的ではないのは仕方のないことだから。
 
 以下はあくまで「おいしいかどうか」という観点からの話。
 
 私たちはたくさんの他地方、他国の食べ物を自分たちの文化に取り込んできた。それはそれは熱心に。
 それこそ日本は世界中の食べ物が食べられる国だと言われているし、それを魔改造して「もはや日本食」としか言いようがないものたくさん作ってきた。
 だけど多分、その食べ物の「食べ方」まで取り込むことにはさほど熱心じゃなかったんじゃないかと思う。
 
 多分、食べ方とセットとなる食べ物って結構あると思うんだ。もちろん他のやり方で食べても食べられるしそれなりにおいしいとしても、「これはこの食べ方で食べるもので、だからこそこの食べ物はこういう形で進化してきた」という食べ方が。とすればおそらく、その食べ物はその食べ方で食べるのが一番おいしい。はず。
 
 これに気づかないのは結構残念……というか、もったいないことなんだと思う。
 
 たまにテレビで「今、○○では日本食がブームです」なんていうレポートがあって、そこで現地の人の食べ方を見たときに感じる、「いや、そんな食べ方しても美味くないだろうよ……」というやつ。寿司をネタとシャリでバラして食べてたり、ラーメンをフォークでつかんで1本ずつ食べたりするのを見て感じるアレ。。
 彼らも「どう食べようが客の勝手」と言うかもしれない。しかし、「いや、まあそうかもしれんけど、それはこうやって食べるのが美味いんだよ。やってみたらいいのに」くらいは言ってあげたくなる。
 
 それが実際にそれを作っている作り手、特に「美味いものを作る」ってことを目指して努力している作り手であればなおさらそうなんじゃないかな。
 
 この焼鳥屋は「串から外さないでガブリついて食べ」るのが一番おいしいと知っている
 だって意識してそう食べて一番おいしいように作ってるんだから。
 
 1本を串のままかぶりつく食べる方がおいしいように作っているのに、串から外して食べるようなことをされれば「もったいない! こうやって食べるのが一番おいしいんだよ!」と助言したくもなるだろうし、「凄く悲しい」気分にもなろうというものだ。
 
 それを、「どう食べようが客の勝手」「店の都合を押し付けるな」「どんだけ意識高い系なんだよ」というのは、あまりに作り手に気の毒じゃないかなあ。
 「僕らは、一本一本、一生懸命、真心を込めて刺しています。それを一本一本、丁寧に美味しく焼きあげています」という言葉だけを見ると、食べ手には関係のない作り手側の勝手な思い入れに映ったり、それを押しつけられるのは迷惑だという感想も出るかもしれない。しかし彼らのその思い入れは何のためにあるのか。やっぱり食べ手においしく食べてもらいたいという心からじゃないか。
 手抜きをして体裁だけ整えて、ラクに金儲けできればいいやと思って作ってる人間からはこんな言葉は出てこない。
 この立て看板の言葉は、作り手の都合の押しつけというよりはむしろ、おいしく食べてもらいたいという客への心遣いからだろう。
 
 「どう食べようが客の勝手」というのは、やっぱり私たちが、食べ物には敏感でもその食べ方には無頓着で、「自分流」に頑なに執着するものだということを如実に表す反応だと思う。
 
 自分の「勝手な食べ方」に、そこまで執着するほどの洗練があるんだろうか。
 いやもちろんある人もいると思うし、それならそれがいいんだと思う。
 ただ、多くの人は固執するほど洗練された食べ方をしているのではなくて、ただ「食べ方にイチャモンつけられるとリクツ抜きで腹が立つ」ってだけの反応だったんじゃないのかな。
 
 もうちょっとくらい、食べ方にも敏感に、柔軟になっていいんじゃないか。

 とはいえ今回の話題はおそらく、「そんなことはわかってるんだけど、多人数で行ったときのマナーとしてこんな習慣ができあがっちゃってるんだから、仕方ないじゃん」という、「おいしい」とは別の視点での炎上という側面があるのだろうとは思うけどね。

 で、1本で完結するように串を作っているのなら、
 
たかが一本でも。その1本の中にドラマがある!
 
 なんて言葉は、とてもいい言葉だと思うよ。

 netgeekの記事は

思わぬ形で炎上してしまった鳥一代、本当に一代で終わらなければいいのだが…。

 なんて皮肉な表現で締められているが、私はわざわざこんなこと書きたくなるくらいがんばって作ってる店は絶対潰れてほしくないよ。

突然食いたくなったものリスト:

  • エクレア

本日のBGM:
ちちんぷいぷいぷい /たこやきレインボー





2 個のコメント

    • つんちゃん on 2017年3月15日 at 3:09 AM
    • 返信

    DATE: 01/01/2017 04:04:00 PM
    あけましておめでとうございます。
    今年もよろしくお願いいたします。

    焼き鳥ですが,注文されたものを目の前で焼いて,焼き立てを注文した人に一本一本出してくれる焼き鳥屋さんと焼きあがったものをいっぺんにグループ毎に皿にのせてまとめて持ってくる焼き鳥屋さんではだいぶ違うと思います。焼き立てを一本出してくれる店は熱々をそのまま食べた方が確かにおいしいでし,しかもこの場合,串から外して食べる必要はありません。一方,皿にまとめて盛られた焼き鳥を出されると,最後に食べる串は当然冷めてしまっています。結果として串から外したとしても串の穴から肉汁が出てしまうわけでもないです。また,自分で注文したはずの串が自分に回ってこないかもしれないです。4人分の焼き鳥を一つのお皿に盛られたらもはや収拾はつきません。
    状況の違いでふさわしい食べ方というのがあるのではないでしょうか。お店にきつい言い方をすれば,おすし屋さんのカウンター席のように,前の串を食べ終わるタイミングで次の串を出してくれるお店ならば文句をいう資格はあると思います。

  1. DATE: 01/03/2017 02:44:37 AM
    明けましておめでとうございます。m(_ _)m
     
    なるほど。確かに出され方というのは理にかなった視点ですね。
    先日、忘年会で気にしていたのですが、やはり外すことになりました。まさにそういう出され方をした店でした。
    そのとき思ったのは、居酒屋的な店と焼鳥の専門店では違うのかなということでしたが、それは結局、つんちゃんさんのいうように「出され方」かなと思います。
    居酒屋的な店と焼鳥専門店ではおそらく客がその店に来る目的も違うのだろう、と思いました。
    そして、「1串1串一生懸命串に刺し、丁寧に焼き上げている」のならば、確かに出し方にも気を遣うのが徹底したやり方でもあると思います。
    なので食べ方がシチュエーションによって違ってしまう、というのはそのとおりだと思います。
    この店がどういう店なのかはわからないのですが。
     
    ただ、「文句をいう資格」というのはどうなのかなと思います。
    ネット世論を見てもそうなのですが、「客の食べ方に文句をいっている」といった受けとられ方をされているようです。
    このエントリで言いたかったことは、これを「文句」と捉えるのはどうだろうか、というところです。もちろん「文句」という言葉で何を指しているのかという話もあるのですが、そこは深入りせずにおくと、私自身はこの焼鳥屋の声明を、「おいしく作っているのでおいしく食べられるように食べてほしい。そのやり方はこうです」という「アドバイス」であると受けとっています。「プロ」であり、しかもその焼き鳥を実際に作っている人が、客がその作ったものを「絶対に美味しくない」食べ方で食べていれば、「いやそうじゃないよ」という言葉が出てくるのは当然だと思うし、そう出てくる方がうれしい。それを私は「文句」とは捉えたくないわけです。

    そして、もしあえて「資格」という言葉を使うのであれば、その料理を作った人が一番、それを言う資格がある人だと思います。

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