『ラーメンと愛国』を読んで感じたいろいろ(1)

 最近話題?なのかどうかよくわからないが、twitterなどで最近やたら目に入ってきていた本、『ラーメンと愛国』を読んだ。
 


『ラーメンと愛国』 (講談社現代新書)
速水健朗 (著)


 この本に付箋を貼りながらメモを取ったり思いついたことを書いていると、かなりの量になってしまった。
 このエントリではこの本について書くことはもちろん、この本を読んでいて思ったり連想したことことまで書いちゃう。だからこれは決して書評ではない。ダラダラと長いだけの読書感想文といった感じ。人に読ませるというよりは、自分用のメモという側面も強い。なので敢えてまとめるつもりがないし、かといってこれをそのまま出すと長すぎるので、2、3回に分けることにした(てことはそのまま出すんじゃないか)。
 
 なお結論を先にいうと、なかなか面白かった。ここで結論されていることについては大筋でなるほどと思う。ただし個々の論については、それぞれ結論を導き出すには弱いんじゃないかと思うことがかなりあった。
 
 ここで全体的な話の流れを詳しく追おうとは思っていない。そのかわり、著者がまえがきで記した大筋を紹介しておく。またググればたくさんの書評が引っかかるはずなので、そちらを参照していただければと思う。
 

 ここでは、本書のおおまかな道筋を示しておこう。
 第一章は、戦後の日本の食生活の変化である。米食を主体としてきた日本に戦後入ってきた小麦食。その背景に迫る。テーマは「食文化帝国主義とラーメン」。
 第二章は、戦前の日本に根付かなかった大量生産が戦後に根付いていった過程を、食品分野にわける大量生産方式の最初の導入例であるチキンラーメンの物語に沿わせて取り上げる。テーマは「日本のものづくり」。
 第三章は、戦後の重要な年である一九五八年を中心に、ラーメンが戦後の日本人の記憶と結びついていく過程を追いかけ、ラーメンが「国民食」となる理由について考察する。テーマは「日本人の記憶の中のラーメン」。
 第四章では、一九七〇年代以降を中心とした国土開発を、ご当地ラーメンの普及に結びつけて考察していく。テーマは「田中角栄とラーメン」だ。
 第五章は、一九九〇年代の社会の変化を、メディアの変化として捉え、テレビのリアリティショーとラーメンの関係、そしてさらにはナショナリズムとの関わりについて考察する。テーマは「なぜラーメンはラーメン道になったのか」。

 
 まず第一章「ラーメンとアメリカの小麦戦略」の記述から。
 
戦後に普及した料理で、子供の大好物を挙げろといわれれば、それはラーメンとスパゲティナポリタンの二つということになるだろう」と著者は言う。
 私はもう、この時点で「むむむ」となってしまう。そりゃこの2つだってそうかもしれないが、他にもいろいろあっただろう。それらを省いてこの2つだけを挙げるには、それはそれで根拠がないといけないはずだ。例えばこの時代の子供のアンケートだったり給食の献立表だったり。ひょっとして著者の中にはちゃんとした根拠があるのかもしれない。しかしこの本はそういった「裏付け」を読者に見せない。これは本書の全体にわたって感じられる点だ。「それでは素直に納得できないよ」と思う。
 あまりに恣意的でしょ、って。
 まあそれはそれとして。
 ラーメンとスパゲティナポリタン、この2つに共通していることがある。
 それは小麦を使っているということ。
 戦後、食糧難の日本にアメリカは小麦を援助した。それは人道的な措置ではあったが、小麦の余剰在庫を抱えていたアメリカの農業界の思惑も大いに影響していたと。そして日本を新たな小麦消費国へと変え、将来的な小麦輸出先にするという意図があったというわけだ。
 なるほど、そういうことはあったのだろうと思う。
 これを著者はアメリカの「食文化帝国主義」と呼んでいる。
 ただし著者はここから特別な結論を導き出すわけではない。
 私自身、ここで面白いと感じたのは、こういう記述だった。
 

だが、日本におけるナポリタンやラーメンが、そういった食品版文化帝国主義の先兵であるといった評価にさらされる機会はほとんどなかった。そもそも、それぞれイタリア、中国を連想させる食べものとして偽装されているので、誰もアメリカ化とそれらが結びついているとは考えられないのである。だが、この二つの料理の普及が、アメリカの小麦輸出政策を背景に持ったものであり、「イタリア」「中国」といったナショナルイメージを偽装して日本の食文化を侵食してきたものと考えると、直接的にアメリカのイメージを帯びたハンバーガーやコカ・コーラやジーンズやハリウッド映画以上に、よほど巧妙なアメリカ化をもたらしていると言えるのではないか。

 
 「それぞれイタリア、中国を連想させる食べものとして偽装されている」が、実はその正体はアメリカだったのだ、という話はなかなか面白かった。なるほど、そういう見方ができるか。
 ただまあ、これを言うために最初に「戦後に普及した料理で、子供の大好物を挙げろといわれれば、それはラーメンとスパゲティナポリタンの二つということになるだろう」として話を始めるのはやっぱり強引だよなあと思う。
 また、戦後日本のアメリカ文化の洪水の中で、どうしてそれらだけ「偽装」しなくてはいけなかったのかという部分もよくわからない。結果的にいろんな戦後文化の背後にアメリカの物資があったよね、ではいけないのか。
 
 
 第二章は、「T型フォードとチキンラーメン」。
 ここでは戦前戦後の「ものづくり」観を語る。
 日本人は「匠」による一点ものを重視し、アメリカは徹底した生産管理による量産によって勝利を得てきた。
 この文脈の中で著者は、先の大戦における両国の軍需工場の例を挙げる。
 

 両者のものづくりの思想の違いは、太平洋戦争における銃後の生産体制にまさに表れている。戦時中のアメリカの軍需工場では、銃後の女性たちも兵器の生産に携わっていた。
 第二次世界大戦中、まだ一〇代の少女だった(とはいえ既婚者だったが)マリリン・モンローは、航空兵器の工場で塗装の仕事をしていた。それが、軍のカメラマンの目にとまり、軍の機関誌に写真が掲載されたのが、後の女優への転身のきっかけだった。アメリカの生産工場は、非熟練工でも生産ラインに加われるような人間工学に基づいてつくられており、施設は機械化され、分業が徹底化され、マニュアル化が進んでいたのだ。
 日本の兵器の生産の現場はその逆だった。日本は兵器といえども、まるで工芸品をつくるかのように組み立てていた。よく言えば丁寧につくられていたのだろうが、熟練した職工に多くを依存した結果、戦争末期に腕利きの職人たちが戦場に動員されると、生産効率は途端に悪くなり、品質の低下に直結した。
 素人でも生産に関われたアメリカと、熟練した職工がいなくなると品質が下がった日本。それが、日米のものづくりの差、そして戦力の差となって表れ、総力戦時代の戦争における勝敗を分けたのである。

 
 そしてガンダムなど日本のアニメーションでの主役が「一点もの」(つまり「ガンダム」や「ヤマト」)である点と、スター・ウォーズのルーク・スカイウォーカーが乗る宇宙戦闘機Xウィングは他の隊員と変わらない量産型である点を対比する。
 また、日本刀のコレクターと西部開拓時代の名銃のコレクターとでは明らかに武器に見ている思想が違う、という。
 これもまた、なるほどそういう面があると思う。
 
 そして戦後、日本人はまさにその生産技術を身につけ、発展させていく。
 その1つの例として「チキンラーメン」の発明者、安藤百福が紹介される。
 

 二〇〇七年一月五日、安藤百福は九六歳で逝去した。偉大な事業家の死に対し、日本のテレビ、新聞などのメディアは、その功績を記して追悼の記事やニュースを報道した。多くのメディアが褒め称えたのは、チキンラーメンを発明し、「インスタントラーメン」という巨大な市場を生み出した業績である。
 その中で、アメリカの『ニューヨーク・タイムズ』は、日本のメディアとは少し違った評価を与えている。『ニューヨーク・タイムズ』の記事は、百福を「労働者階級のための安くて、きちんとした食べもの」を独力でつくった人物として評して、その功績を称えたのである。これは彼を商品の”発明者”や新産業をゼロからつくった起業家として評価したのではなく、ラーメンを大量生産可能な”工業製品”として発明し、安価な保存食品として世界に広めたという、百福が持っていたものづくりの思想への評価である。
 安藤百福の死後の評価における日米の違いとは、両国のものづくりというものの捉え方の違いである。貧しい農家に生まれ、子ども時代から機械いじりが好きだった少年が、貧しい人々が乗る安価な自動車を生み出したというフォードの物語は、アメリカにおいては繰り返し語られる神話となっている。これは、”生産技術”を思想として捉えるアメリカ固有の物語なのだ。一方日本において幾度となく繰り返されるのは、職人の匠であり、一点もののメカや兵器の物語なのである。これはこれで、そう一朝一夕には変わらない日本固有の物語なのだろう。

 
 この話は後々、デフレの中ラーメンだけがチェーン店による寡占化を免れ、前時代的な職人、「匠」志向に向かっていくという話題につながっていく。
 
 
 第三章は、「ラーメンと日本人のノスタルジー」。
 

 『ガラスの仮面』の主人公である北島マヤは、横浜中華街のラーメン屋の二階に住み込みで働く母親とともに暮らしており、マヤ自身もラーメンの出前を手伝っている。だが、この設定は、マヤが在日中国人であるということを意味しない。少なくとも、それを匂わすような描写は、この物語には描かれたことはない。ライバルの姫川亜弓が、映画監督と大女優の娘として裕福な家庭に生まれ、かつ才能にも恵まれているのに対して、マヤは貧乏な母子家庭の育ちであり、ラーメン屋の住み込み店員の娘である。ラーメン屋の住み込みという設定は、貧乏を示す記号として示されているに過ぎない」

 
 他にもドラマ『ふぞろいの林檎たち』で柳沢慎吾が演じた西寺実が、実家がラーメン屋であることにコンプレックスを感じているという設定も紹介する。このあたりの「ラーメン屋」がもつ記号的な役割については「なるほど」だ。
 
 そして松本零士『男おいどん』、藤子不二雄『オバケのQ太郎』、大滝詠一「びんぼう」などに描かれる、あるいは集団就職で大量発生した都市生活者……独身男性の日常食としてのラーメン。昭和30年代に青年期を過ごした世代にとって、ラーメンは若くて貧乏な独り暮らしの記憶と結びついている、という。
 これもまた「なるほど」ではある。ただ1つ、筆者は意図的なのかどうかわからないが、このあたりはインスタントラーメンと店で食べるラーメンをごちゃ混ぜにして論じている。
 例えば上記の作品で言えば、『男おいどん』は中華料理屋「紅楽園」のラーメンライスだが、『オバケのQ太郎』の小池さんが食べているのはインスタントラーメンだ。奥さんは若くてきれいで料理もうまいのに、小池さんはインスタントラーメンを要求する。また大滝詠一の「びんぼう」の一節「♪パンとラーメン やめてニクニク」という部分も、「パンとラーメン」という並びなのだからこれもインスタントラーメンだと考えるのが自然だろう。

 東京都の物価で言えば、こんな統計がある。


総務省小売物価統計調査 調査結果よりhietaroがグラフ化

※即席中華めんが右の方でわけのわからん動きをしているのは、それまで袋麺1袋だった調査対象単位を2001(平成13)年には5袋入り1パックとし、その翌年からカップ麺1袋に変更したから。どうしてこんなことをするのかよくわからんけどね。
 
 中華そば=ラーメン(外食)は、かけうどん(外食)よりも高い水準をずっとキープしている。それに比べてインスタントラーメンは外食に比べればずっと安上がりだ。
 
 こういう差があるのだから、インスタントラーメンの方を「ラーメン」だと認識している人にとって、店で食べるラーメンはやはり別のものだったと考えるのが自然のようにも思える。
 
 もちろん、にもかからわずこれらが混同して認識されている、という論であればそれでもいい。しかしこの本の中には両者をごちゃ混ぜに扱うことについての明確な意識も断りも見あたらないので、やはりどうにもひっかかりを感じてしまう。
 
 ……ここまでは正直、あまり面白いとも思わず読み進めた。
 興味深い話題が増えていくのは第四章「国土開発とご当地ラーメン」から。
 

 『ラーメンと愛国』を読んで感じたいろいろ(1)(当エントリ)
 『ラーメンと愛国』を読んで感じたいろいろ(2)
 『ラーメンと愛国』を読んで感じたいろいろ(3)
 

突然食いたくなったものリスト:

  • 美佳味のお好み焼き

本日のBGM:
Time After Time /DATE OF BIRTH





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