村田兆治が現役復帰! ドジャースと契約

 かねて噂の絶えなかった「マサカリ兆治」こと元ロッテ・オリオンズの村田兆治投手(58)の現役復帰が現実のものとなった。
 しかも、その契約先はロサンゼルス・ドジャース。
 背番号はロッテ時代と同じ29番。開幕登録2時間前という駆け込みの選手登録となった。
 村田投手の現役復帰は、同球団名誉顧問のトミー・ラソーダ氏の熱いラブコールに応えたものだという。
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『水からの伝言』の2つの側面

 『水からの伝言』の話は何回かしたけども、この話についてちょっと自分の中での整理をかねてウダウダと書いておく。(何か変か? (^^; )

 まあだいたい出尽くした話だとは思うけども。

 『水からの伝言』には2つの段階がある。
 片方を「現象編」、もう一方を「解釈編」とでもしておこう。枝葉末節を考えれば、これ以外にも「行動編」(^O^)とか、いろいろあるだろうけど、話としてはだいたいこの2つだろう。

 最初の現象編とは、この話のベースになる、物理現象の話。
 「ありがとう」「ばかやろう」という言葉を書いた紙を水に「見せ」ると、「ありがとう」の方の水は綺麗な結晶を結び、「ばかやろう」の方は結晶を結ばない(ルックス的にはかなり汚い感じ)、というもの。

 解釈編は、現象編をもとに、これを解釈する段階。

「ありがとう」→ 結晶を結ぶ
「ばかやろう」→ 結晶を結ばない

 ということから、

「水はポジティブな言葉にポジティブな反応をし、ネガティブな言葉にネガティブな反応をする」
「よい言葉をみんなが使えば、それで世の中がよくなる」
「水がいい言葉に反応するのだから、60%が水分でできている私たちの体もいい言葉に反応するはず」

 といった解釈が導き出される(「水伝授業」もこういう解釈に基づいている)。

 つまり、まず現象編で物理現象を語り、それを解釈編で読み解く、という段階があると。
 まあ段階があるとはいえ、全く独立しているわけではなく、解釈編現象編がないことには存立し得ない。

 一般に『水からの伝言』をめぐる物語を信じている人たちは解釈編の方に魅力を感じているのだと思う。
 本来、解釈編現象編があって初めて成り立つのに、これだけが独立して支持されていると。

 ここで書いたように『水からの伝言』に2つの側面があるとすれば、『水からの伝言』に向けられる批判は、そのどちらに向けられたものかを見分ける必要がある。

 で、「科学」の面から批判されるのは物理現象を語る現象編ということになる。

 言葉が水などの性質に影響を与えるようなことがあれば、人類がこれまで積み上げてきた経験は、かなりの部分、否定されることになってしまう。

(これまでの科学の知見は物理現象に言葉の影響を織り込んでいないにもかかわらず、何ら矛盾が出ていない。にもかかわらず、そんな現象があるということになれば、それら[=水伝を織り込まない人類のこれまでの経験]の多くを否定しなくてはいけなくなる)

 だからこの物理世界に住んでいる限り、現象編はどうしようもなく否定される。(「それでもいいじゃん」と言ってしまう人のメンタリティについてはここに書いた)

 「科学」が否定するのはここまでだ。
 しかし結局、現象編が否定されてしまえば、それを土台としている解釈編もまた、自動的にアウトとなってしまう、
 だから間接的ではあるにしろ、「科学」は結果的に解釈編をも否定したことになる。

 実際、「水伝ビリーバー」の反論の少なからぬ割合を占める「科学が絶対じゃない」みたいな反論は、まさに直接「科学」そのものへと向けられている。
 もしも「科学」への反論がしたいのであれば、「科学が絶対じゃない」ではなく、「いや、本当にそういう現象は起きるんだよ」(=「現象編は正しい」)となるべきなんだけども、そういう反応にはいかないようだ。

 では解釈編に直接向けられる批判はないのかといえば、そうでもない。

 ただ、現象編と違って解釈編はあまりにも恣意的な要素が強いので「まあ個々人の責任で解釈すればいいけど、人に押しつけるならちょっとは説得力持たせないとね」くらいにとどまってしまい、あまり大きな声にはなっていないように思える。

 だいたい、もし仮に現象編

「ありがとう」→ 結晶を結ぶ
「ばかやろう」→ 結晶を結ばない

 が本当にあったとして、そこから

「水はポジティブな言葉にポジティブな反応をし、ネガティブな言葉にネガティブな反応をする」
「よい言葉をみんなが使えば、それで世の中がよくなる」
「水がいい言葉に反応するのだから、60%が水分でできている私たちの体もいい言葉に反応するはず」

 なんて解釈が必然的に導き出せるのかといえば、全くそんなことはない。
 例えば

 「ありがとう」との言葉を見せても水が結晶を結ぶことは少ない(50のシャーレのうち数個)。まして普通の(何もしない)状態ならかなりのレアケースになる。
 通常、水に関わる道具や機械は「ありがとう」で水に生じる(生じてしまう)物理変化を織り込まずに設計されている。にもかかわらず不用意に水に「ありがとう」なんて言葉をかけて何らかの物理変化が起きてしまうと、規格外の水を使われた機械は故障してしまうかもしれない。そういう機械の中には命にかかわる機械もあるはずだ(医療機器とか)。あるいは私たちの体の60%を占める水が変化すれば体に何らかの変調をきたすと考えるのが妥当だけども、それが万人にとって「いい方向」にだけ変化するなんてことの方が不自然で、アレルギー症状などで命の危険に晒される人も出るかもしれない(「ありがとう」アレルギー(^O^))。
 だから地球上の命を守るために、皆さん、『ありがとう』なんてヤッカイな言葉は金輪際使わないようにしましょう。

とか、

 世の中が単純な「いい/悪い」で割り切れるようなものではないってことは今なら子供でも知ってる。それをそういう二分法でしか解釈できない水は、社会の敵だ。なるべく排除しよう。

 なんて解釈も、まあ理屈上は可能なわけだ。

 ところがこういう解釈を採る水伝ビリーバーはいない。

 いろんな「解釈」が成り立ち得る中で、ある解釈だけを恣意的に選び出しているのが『水からの伝言』だということになる。
 つまり、水伝の本質は現象編ではなく解釈編であると。

 繰り返すが、解釈編現象編から論理的に導き出せる結論ではなく、かなり恣意的な、いってみれば「信じたい」結論でしかない。
 だから現象編から解釈編へとつながる論理的必然性を問題にしても、あまり意味はないのだろう。そういう経路を恣意的に選んでるのだから(意識しているかどうかは別として)、もともと論理的ではないわけで。

 だから現象編から解釈編へとつながる経路や解釈編の内容そのものに対しては、「科学」は直接的には批判のボキャブラリーを持たない。

(ってことで、解釈編に立脚している「科学が全てじゃない」とか「未科学だ」なんていう反論が科学に対して「直接」なされるのは無意味だ。科学からの批判はあくまでも現象編を経由した上での間接批判にすぎないのだから)

 「善/悪、美/醜の単純な二分法」「価値判断の根拠を水に求めてしまうこと」「見かけで中身を決めつけること」など、解釈編に内包される問題点は少なくない。

 解釈編のチープな愚かさを直接批判するべきは、「倫理」「文学」「宗教」「芸術」とかいう分野なんだろうと思う。

 ちゃんと批判すべき勢力が批判すべきなのだ。
 もちろん、そういう方面からの批判はちゃんと出ているよ。

 しかし、特に「芸術」や「宗教」なんて方面の方がその表面的な「耳あたりの良さ」に惑わされて肯定してしまっているのを見るのは悲しい限り。本来、自分たちの立ち位置とは対極にあるもののはずなんだ、水伝は。
 「芸術」や「宗教」はそんなに単純じゃないでしょう。_| ̄|○

 だからこういう話を聞くと、悲しくなる。

 昔、呉智英が、どこかの寺の坊さんが、見学に来た学生たちに仏教がどれだけ民主主義に合致しているかを説いていたというエピソードを挙げて批判していたけども、それと一緒だわ。

 水がどういう結晶を結ぼうと、もし仮に全然結晶を結ばないようなことであっても、あるいはそれが民主主義に反していようと、宗教的に正しいことは正しいのだと言い切るべきなのに、何を日和っておるのかと。

 宗教的真理を水に教えてもらわないかんのなら、別に教えなんかいらんぞ。

 だから実は、『水からの伝言』ビリーバーが批判に対して反論するには、「科学が全てじゃない」だとか「本当にそういう現象はある」だとかという、現象編批判への反論だけでは全く不十分で、解釈編で恣意的に行った解釈が妥当であることを主張しないといけない。前者が「科学」に対する反論で、後者が「倫理」「文学」「宗教」「芸術」に対する反論になる。

 物理現象から「意味」を抽出しようとすると、どれはどうしたって恣意的な解釈にならざるを得ないわけで、そこには解釈する人自身の世界観や人格なんてものが鏡のように映し出されるんだよね。

 だから『水からの伝言』批判をされた側は、自分の人格や世界の捉え方そのものを否定されたような気分になるんだろうな。

 こういう2つの側面の話で見ると、「では現象編を排除した水伝はニセ科学ではない」的なアホな意見を言い出す人が出てくるが、結局解釈編現象編なくしては存立できないので、2つを純粋に分けようとするのは単なる言葉の遊び。


 

しかし近代科学の近代科学たるゆえんは、本質論的・原因論的問い方、”What”や”Why”の問い方を捨て、”How”という問い方を意識的に採用したことによって成立した。「点」や「線」や「面」を本質論的・原因論的に究明するというプログラムは、元々、近代科学には組みこまれていないのである。本質や原因の認識の「断念」こそが近代科学を成功に導いたのである。

── 山川偉也『ゼノン 4つの逆理 ── アキレスはなぜ亀に追いつけないか ── 』より。

 

 さっきapj氏のブログを見たら、同じようなことを書いてる人のブログを紹介していた。ちゃんと読んでないんだけど。
 ま、皆さん同じようなことを考えるってことで。

突然食いたくなったものリスト:

  • 春駒のうなぎのにぎり

本日のBGM:
Thinking of You /泰葉

トンデモやニセ科学のこと

 某所で書いたことを、ここにも載せておこう。

 ニセ科学を信じる人って、否定されると「夢がない」とか言うんだよね。「頭が固い」とか。あるいは「科学が全てじゃない」とか。

 正統な科学の迫力とか凄さを全然解ってない。
 徒花は確かに綺麗に映るけども、王道の奥深さに一度でも触れればそんなものは一瞬のものに過ぎないことに気づいて、取り込まれるようなことはないはずなんだ。
 あんたらが思ってるほど、人類の英知はバカじゃない。

「死ぬ気で勉強したこと無いうちに「勉強なんて役に立たない」とか言わないでね」(雲和広)

 ということですよ。知らないのに否定している。というか、知らないから否定したい。

「あなた、科学の何を知ってるってゆーのよ!?」

 みたいな。(^O^)
 (知ってたら「科学が全てじゃない」なんていう当たり前のことが反論になりようがないのがわかるはず)

 彼らはきっと、「日常」のつまらなさの奧に「今の科学」を見ているんだと思う。(私はこれを不勉強ゆえだと思うけども)
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「残してほしい」?

さいなら「手ぶり」、中部大阪商取で最後の取引

 ニッケルなどの商品先物取引を扱う中部大阪商品取引所「大阪取引センター」(大阪市西区)で31日、国内で唯一残っていた「手ぶり」取引による最後の立ち会いが行われた。9月からコンピューター取引に移行するのに伴うもので、江戸時代から300年近く続いてきた取引風景が姿を消した。

 手ぶりによる最終取引となった午後3時40分からのゴムの立ち会い(10分間)では、「場立ち」と呼ばれる商品先物会社の社員らが、独特の手サインで売買注文の合図を交わした。最後の取引が成立し、職員が「撃柝(げきたく)」と呼ばれる拍子木を鳴らすと、詰め掛けた市場関係者らが拍手で締めくくった。

 木村文彦理事長は「一抹の寂しさは感じるが、今後も愛される取引所に向けてまい進したい」と述べた。大阪取引センターの職員は、会員業務や地元財界との連絡などを行う2人が残るだけとなる。

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世界報道写真展2007

 先日、「世界報道写真展2007」を見に行ってきた。

 誘われたから行っただけで、正直なところそれほど興味はなかったんだよ。
 だってこの題名から簡単に想像できるでしょ。死体ばっかりなんだもん。(>_<)
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生冷し中華@オオタメン

 先日、普段行かないスーパーで、ある冷やし中華を発見。

 一見、何の変哲もない冷やし中華。
 いや実際、全く変哲はないんだけどね。

 注目したのはそのメーカー。

 オオタメンじゃないか。
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