大阪でも知っている人がどのくらいいるのかわからないが、現在、「ミュージアムウィークス大阪2008」というイベントが行われている(2008/09/13~2008/10/13)。
大阪市立の8つの博物館・美術館・動物園が、各施設の所蔵するコレクションの中からその年ごとの「お宝の一品」を同時に公開するキャンペーンで、8施設揃っての同時公開は年に1度、このキャンペーン期間中だけとなっている。
「芸術の秋」ってやつね。(^O^)
参加施設は以下の8施設。
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大阪でも知っている人がどのくらいいるのかわからないが、現在、「ミュージアムウィークス大阪2008」というイベントが行われている(2008/09/13~2008/10/13)。
大阪市立の8つの博物館・美術館・動物園が、各施設の所蔵するコレクションの中からその年ごとの「お宝の一品」を同時に公開するキャンペーンで、8施設揃っての同時公開は年に1度、このキャンペーン期間中だけとなっている。
「芸術の秋」ってやつね。(^O^)
参加施設は以下の8施設。
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【注 2008/08/22】「しゃかりき」の部分の表現が、パブリックな場での表現としてストレートかつ独善的に過ぎました。また、頑張っている店に対して不適当な表現もあったと思いますので、本文を一部訂正しました。
先日来、何度か書いているように、現在、1ヶ月限定で、麺屋棣鄂の新麺「MTG」を使った塩つけ麺『MTG』というつけ麺を京都、大阪の3店舗で提供するという企画が行われている。
以前、「アイドルのエッチと、ラーメンのうま味」というエントリを上げたことがある。
化学調味料の話題。
このエントリは読者の少ない私のブログの中では、はてなブックマークを一番たくさんもらっていて(15users)、2ヶ月以上前のエントリであるにもかかわらず、今でも2chあたりからはリンクが貼られる。
公の場で化学調味料の話題を出すのはなかなか難しい。
一部にヒステリックに化学調味料を拒否する人々がいるのは事実なので。
だから私はあのエントリを書くにあたって、そういう人と一緒にされないように(実際違うし、私もそういう人たちには批判的だ)かなり注意して書いたはずなんだ。
読んでいただければわかると思うのだけれど。
期せずしてこのエントリがそこそこ注目を浴びたことで、見えてきたことがある。
化学調味料だというだけで短絡的に拒否反応をする人
は確かに多いが、
化学調味料を話題として持ち出しただけで、「化学調味料だというだけで短絡的に拒否反応をする人」だと短絡的に断定する人
も、かなり多いということ。(いや、多くないのかな? 数例だけの話であることを願いたいが……)
たとえばこんな↓ブコメ。
2008年06月04日 synonymous かまととぶり。/子供のころからアイドルとかどうでもいい人だったので、性交しようがしまいがまるで問題ないんだが。ラーメンだって、こっちの有名店じゃ昔は客の前で化調ふりまいてたものな。そういうもんだよ。 |
「かまとと」というのは、私が「きゃああああ、化学調味料が入ってるなんてーーーーーーーー!!」と言ってるとでも思ってるんだろうなあ。
#まあ訳知り顔に「ラーメンなんて/外食なんてそんなもん」と言うことで何か言ったような気になれる人(多い)というのもアレだし、それなしにやってる店の努力を完全に踏みにじる困った発言でもあるんだけど、しかしそのことに関しては個人のラーメン/外食観ではあるので、そういう見解もアリだろうと思う。しかし上記は勝手な誤読。
あるいはココでは
あったま悪いブログだなー。文系丸出し。 ジハイドロジェン・モノオキサイドは酸性雨に含まれていて、ガン患者の100%が摂取していた!! とかいうとヒステリー起こしそう。 |
などという反応があった。
要はこの人たち、読んでないんだよね(あるいは読解力がないか、読みたいようにしか読まないか)。
いや、一部の化学調味料批判者が短絡的でヒステリックであることは私もそういう印象を持っているけども、(おそらく)それを批判したい側の人間が、こういう話題が出てきたらすぐに「またそういう短絡的な反応か」と、短絡的に反応してしまうことが多いのは、非常に特徴的だと思う。
まあ何というか、化学調味料批判者だけではなく、化学調味料批判者批判者(^O^)も、おまえらちょっと冷静になって頭を使え、と言いたい。
考えないことに関しては、どっちもどっちだ。
なんなんだろうな、この話題には人の冷静な思考を妨げる何かがあるのだろうか。(^O^)
ちなみにこれが化学調味料ではなく保存料なら、両者はどういう反応をするのだろう?
たとえばPG(プロピレングリコール)あたりはどうだろう?
製麺所の麺には多く使用されている。
化学調味料批判者の反応はまあだいたい想像がつくけど(^O^)、化学調味料批判者批判者はどうなのかな?
保存料が世の中に必要なのはその通りで、これがないとえらいことになることは確か。
ただし、化学調味料論議と違うのは、保存料が入ると味が落ちるということ。化学調味料の場合は「うまくなる」が前提だったはずで、保存料の場合は安全性と引き換えに味は落ちる。小麦の割合が減るわけだから。
それはそれで短絡的に(^O^)肯定するのだろうか。あるいはちゃんと考えて反応するのだろうか。
突然食いたくなったものリスト:
本日のBGM:
裏切りの季節 /JACKS
☆ このクラスは非常に問題の多いクラスだと、昨日校長先生からベッドの中で聞きました。 ── 田上よしえ。
☆ Q: Windows ソフトのことで困っています。助けてもらえますか? ── エリック・S・レイモンド『ハッカーになろう』より。ほんとにやらないでね。
☆ 優れた哲学者とは、すでに知られている問題に、新しい答えを出した人ではない。誰もが人生において突き当たる問題に、ある解答を与えた人ではない。これまで誰も、問題があることに気づかなかった領域に、実は問題があることを最初に発見し、最初にそれにこだわり続けた人なのである。 ── 永井均『ウィトゲンシュタイン入門』より。
|
すでにどういうものだったか忘れてしまったが、あるきっかけで20XX年問題を調べてみたらやたら出てきたので「こりゃ面白い。ブログに載せようと」と思って集めだしたら思った以上にたくさんあって引くに引けなくなって続けてたらまさに芋づる式にシャレにならんくらい多く出てきて、でもここまでやって中途半端にやめるのもナンだしなあと泥沼に入る典型的な動機で続けてこのざまだ。← 一気読み推奨
というわけで、世の中は問題だらけ。日本は妖怪吹きだまり。
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以前、「9条護憲派はオトモダチごっこを早く卒業しないと」というエントリでFSMさんと何度かやりとりをさせてもらったのだけども、その時に書かなかったことで、追記したいことを思い出した。
一口に「護憲派」といってもその内容は実に様々であることはそのとおりとして、多くの「護憲派」の困ったところの1つを追記しておく。(とはいえこれはFSMさんがそうだと言っているわけではないので、そのへん誤解なきよう)
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先日お伝えしたとおり、<ま、ラーメンでも一杯。>を更新した。
これを記念して?、過去(2006年末)に書いた記事にちょっと訂正など加えてもう一度上げておこうと思う。
ラーメンのガイドブックの比較について。
まあきっとこれはラーメンに限らず、いろんなガイドブックにあてはまる話だと思う。
#ラーメンは店の移りかわりが激しくて市場もそこそこ大きいから他より顕著ではあるかな。
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最近、カセットテープ音源のmp3化をしてるって話を書いたけども。
もう何年も再生してなかった古いカセットテープの中には、巻き戻しや早送りのようなテープに負担が強い作業をすると、テープが切れちゃうのもある。
どうやらリーダーテープと記録テープの継ぎ目が弱いみたい。
今回も、来た。
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【2017年5月再アップ時の追記】このエントリは2008年6月にオリジナルのものを上げました。この頃はまだ化学調味料(うま味調味料)について漠然とした印象しか持っておらず、ここのエントリでも「使うのはいいとして、おおっぴらではなく隠れてやってよ」という趣旨のことを書きました。その後、このエントリをきっかけに、「ラヲタを名乗るのであれば化学調味料(うま味調味料)については一度、ちゃんと調べておくべき」と考えていろんな文献などを当たり勉強しました。この話題は人によっていろんな立場があり、たいていの場合荒れてしまいますが、何にせよ考えやスタンスを確立するにはまず情報がないと判断ができないと思います。
調べたこと、考えたことについてはその後いろんなエントリとして上げています。このエントリの末にリンクを張っていますので、是非読んでみてください。ネットでタダで読める化学調味料(うま味調味料)についての資料としてはかなりの充実度になっていると思います。
「うちは味の素なんか使ってへんで。うちはな、ハイミーや」
と、自慢げに話したラーメン屋のオヤジがいたとか。
ハイミーは味の素の2倍以上するので、「高級品を使っている」という素朴な自慢なわけだ。
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kikulogにコメントしようとふと思ったのだけれど、少し政治的な話になると思うので、自分のところに書いた方がいいかなと思って、ここ用に書きました。さすがにこれをkikulogにコメントしようとしたわけじゃありません。(^O^)
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たまたま同時期に重なったことがあって、それは単なる偶然とは思うのだけれど、まあそれはそれ、ちょっと書いておく。
先日東京に行ったときに上野公園の美術館、博物館の充実ぶりをうらやましく思ったという話を書いたけれど、私がそれ以上にうらやましいと思ったのはその盛況ぶりだった。上野公園は平日の昼であったにもかかわらずまさに「盛況」と呼ぶにふさわしい賑わいぶりだった。「文化」というのはそれを支える人がいて初めて成り立つわけだし、それを読み違えるからこそ各地で「箱モノ」はできたけれど見に来る人がいなくて失敗、なんて事例は後を絶たないわけで。
そういう意味で、東京は「キャパがある」というか、受け入れる土壌があるんだなあ、と思った。
かねて噂の絶えなかった「マサカリ兆治」こと元ロッテ・オリオンズの村田兆治投手(58)の現役復帰が現実のものとなった。
しかも、その契約先はロサンゼルス・ドジャース。
背番号はロッテ時代と同じ29番。開幕登録2時間前という駆け込みの選手登録となった。
村田投手の現役復帰は、同球団名誉顧問のトミー・ラソーダ氏の熱いラブコールに応えたものだという。
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出雲大社、59年ぶり本殿公開
出雲大社(出雲市大社町)は4月から8月にかけ、59年ぶりに国宝の本殿を一般公開する。普段は立ち入り禁止だが、本殿を改修する「平成の大遷宮」に伴い、ご神体を別の場所に移すため実現した。 1744年に建設された本殿は、最も古い神社様式「大社造り」で、高床式になっている。一般公開では、階段で本殿を巡る廊下まで上り、建物内部を見学することができる。天井には、7つの雲を赤や緑などで色鮮やかに表現した絵画「八雲之図」が描かれている。 「平成の大遷宮」では2008年度から5年をかけて約60年ぶりに本殿を改修する。この間、本殿のご神体を拝殿に移す。一般公開は大遷宮の期間中、今回の4月―8月だけとなる。 公開日は4月21―23日、4月26日―5月6日、5月13―18日、8月1―17日の計37日間の午前9時半―午後4時半まで。Tシャツや短パンなど軽装は不可。 |
『水からの伝言』の話は何回かしたけども、この話についてちょっと自分の中での整理をかねてウダウダと書いておく。(何か変か? (^^; )
まあだいたい出尽くした話だとは思うけども。
『水からの伝言』には2つの段階がある。
片方を「現象編」、もう一方を「解釈編」とでもしておこう。枝葉末節を考えれば、これ以外にも「行動編」(^O^)とか、いろいろあるだろうけど、話としてはだいたいこの2つだろう。
最初の現象編とは、この話のベースになる、物理現象の話。
「ありがとう」「ばかやろう」という言葉を書いた紙を水に「見せ」ると、「ありがとう」の方の水は綺麗な結晶を結び、「ばかやろう」の方は結晶を結ばない(ルックス的にはかなり汚い感じ)、というもの。
解釈編は、現象編をもとに、これを解釈する段階。
「ありがとう」→ 結晶を結ぶ
「ばかやろう」→ 結晶を結ばない
ということから、
「水はポジティブな言葉にポジティブな反応をし、ネガティブな言葉にネガティブな反応をする」
「よい言葉をみんなが使えば、それで世の中がよくなる」
「水がいい言葉に反応するのだから、60%が水分でできている私たちの体もいい言葉に反応するはず」
といった解釈が導き出される(「水伝授業」もこういう解釈に基づいている)。
つまり、まず現象編で物理現象を語り、それを解釈編で読み解く、という段階があると。
まあ段階があるとはいえ、全く独立しているわけではなく、解釈編は現象編がないことには存立し得ない。
一般に『水からの伝言』をめぐる物語を信じている人たちは解釈編の方に魅力を感じているのだと思う。
本来、解釈編は現象編があって初めて成り立つのに、これだけが独立して支持されていると。
ここで書いたように『水からの伝言』に2つの側面があるとすれば、『水からの伝言』に向けられる批判は、そのどちらに向けられたものかを見分ける必要がある。
で、「科学」の面から批判されるのは物理現象を語る現象編ということになる。
言葉が水などの性質に影響を与えるようなことがあれば、人類がこれまで積み上げてきた経験は、かなりの部分、否定されることになってしまう。
(これまでの科学の知見は物理現象に言葉の影響を織り込んでいないにもかかわらず、何ら矛盾が出ていない。にもかかわらず、そんな現象があるということになれば、それら[=水伝を織り込まない人類のこれまでの経験]の多くを否定しなくてはいけなくなる)
だからこの物理世界に住んでいる限り、現象編はどうしようもなく否定される。(「それでもいいじゃん」と言ってしまう人のメンタリティについてはここに書いた)
「科学」が否定するのはここまでだ。
しかし結局、現象編が否定されてしまえば、それを土台としている解釈編もまた、自動的にアウトとなってしまう、
だから間接的ではあるにしろ、「科学」は結果的に解釈編をも否定したことになる。
実際、「水伝ビリーバー」の反論の少なからぬ割合を占める「科学が絶対じゃない」みたいな反論は、まさに直接「科学」そのものへと向けられている。
もしも「科学」への反論がしたいのであれば、「科学が絶対じゃない」ではなく、「いや、本当にそういう現象は起きるんだよ」(=「現象編は正しい」)となるべきなんだけども、そういう反応にはいかないようだ。
では解釈編に直接向けられる批判はないのかといえば、そうでもない。
ただ、現象編と違って解釈編はあまりにも恣意的な要素が強いので「まあ個々人の責任で解釈すればいいけど、人に押しつけるならちょっとは説得力持たせないとね」くらいにとどまってしまい、あまり大きな声にはなっていないように思える。
だいたい、もし仮に現象編の
「ありがとう」→ 結晶を結ぶ
「ばかやろう」→ 結晶を結ばない
が本当にあったとして、そこから
「水はポジティブな言葉にポジティブな反応をし、ネガティブな言葉にネガティブな反応をする」
「よい言葉をみんなが使えば、それで世の中がよくなる」
「水がいい言葉に反応するのだから、60%が水分でできている私たちの体もいい言葉に反応するはず」
なんて解釈が必然的に導き出せるのかといえば、全くそんなことはない。
例えば
「ありがとう」との言葉を見せても水が結晶を結ぶことは少ない(50のシャーレのうち数個)。まして普通の(何もしない)状態ならかなりのレアケースになる。
通常、水に関わる道具や機械は「ありがとう」で水に生じる(生じてしまう)物理変化を織り込まずに設計されている。にもかかわらず不用意に水に「ありがとう」なんて言葉をかけて何らかの物理変化が起きてしまうと、規格外の水を使われた機械は故障してしまうかもしれない。そういう機械の中には命にかかわる機械もあるはずだ(医療機器とか)。あるいは私たちの体の60%を占める水が変化すれば体に何らかの変調をきたすと考えるのが妥当だけども、それが万人にとって「いい方向」にだけ変化するなんてことの方が不自然で、アレルギー症状などで命の危険に晒される人も出るかもしれない(「ありがとう」アレルギー(^O^))。
だから地球上の命を守るために、皆さん、『ありがとう』なんてヤッカイな言葉は金輪際使わないようにしましょう。
とか、
世の中が単純な「いい/悪い」で割り切れるようなものではないってことは今なら子供でも知ってる。それをそういう二分法でしか解釈できない水は、社会の敵だ。なるべく排除しよう。
なんて解釈も、まあ理屈上は可能なわけだ。
ところがこういう解釈を採る水伝ビリーバーはいない。
いろんな「解釈」が成り立ち得る中で、ある解釈だけを恣意的に選び出しているのが『水からの伝言』だということになる。
つまり、水伝の本質は現象編ではなく解釈編であると。
繰り返すが、解釈編は現象編から論理的に導き出せる結論ではなく、かなり恣意的な、いってみれば「信じたい」結論でしかない。
だから現象編から解釈編へとつながる論理的必然性を問題にしても、あまり意味はないのだろう。そういう経路を恣意的に選んでるのだから(意識しているかどうかは別として)、もともと論理的ではないわけで。
だから現象編から解釈編へとつながる経路や解釈編の内容そのものに対しては、「科学」は直接的には批判のボキャブラリーを持たない。
(ってことで、解釈編に立脚している「科学が全てじゃない」とか「未科学だ」なんていう反論が科学に対して「直接」なされるのは無意味だ。科学からの批判はあくまでも現象編を経由した上での間接批判にすぎないのだから)
「善/悪、美/醜の単純な二分法」「価値判断の根拠を水に求めてしまうこと」「見かけで中身を決めつけること」など、解釈編に内包される問題点は少なくない。
解釈編のチープな愚かさを直接批判するべきは、「倫理」「文学」「宗教」「芸術」とかいう分野なんだろうと思う。
ちゃんと批判すべき勢力が批判すべきなのだ。
もちろん、そういう方面からの批判はちゃんと出ているよ。
しかし、特に「芸術」や「宗教」なんて方面の方がその表面的な「耳あたりの良さ」に惑わされて肯定してしまっているのを見るのは悲しい限り。本来、自分たちの立ち位置とは対極にあるもののはずなんだ、水伝は。
「芸術」や「宗教」はそんなに単純じゃないでしょう。_| ̄|○
だからこういう話を聞くと、悲しくなる。
昔、呉智英が、どこかの寺の坊さんが、見学に来た学生たちに仏教がどれだけ民主主義に合致しているかを説いていたというエピソードを挙げて批判していたけども、それと一緒だわ。
水がどういう結晶を結ぼうと、もし仮に全然結晶を結ばないようなことであっても、あるいはそれが民主主義に反していようと、宗教的に正しいことは正しいのだと言い切るべきなのに、何を日和っておるのかと。
宗教的真理を水に教えてもらわないかんのなら、別に教えなんかいらんぞ。
だから実は、『水からの伝言』ビリーバーが批判に対して反論するには、「科学が全てじゃない」だとか「本当にそういう現象はある」だとかという、現象編批判への反論だけでは全く不十分で、解釈編で恣意的に行った解釈が妥当であることを主張しないといけない。前者が「科学」に対する反論で、後者が「倫理」「文学」「宗教」「芸術」に対する反論になる。
物理現象から「意味」を抽出しようとすると、どれはどうしたって恣意的な解釈にならざるを得ないわけで、そこには解釈する人自身の世界観や人格なんてものが鏡のように映し出されるんだよね。
だから『水からの伝言』批判をされた側は、自分の人格や世界の捉え方そのものを否定されたような気分になるんだろうな。
こういう2つの側面の話で見ると、「では現象編を排除した水伝はニセ科学ではない」的なアホな意見を言い出す人が出てくるが、結局解釈編は現象編なくしては存立できないので、2つを純粋に分けようとするのは単なる言葉の遊び。
しかし近代科学の近代科学たるゆえんは、本質論的・原因論的問い方、”What”や”Why”の問い方を捨て、”How”という問い方を意識的に採用したことによって成立した。「点」や「線」や「面」を本質論的・原因論的に究明するというプログラムは、元々、近代科学には組みこまれていないのである。本質や原因の認識の「断念」こそが近代科学を成功に導いたのである。
── 山川偉也『ゼノン 4つの逆理 ── アキレスはなぜ亀に追いつけないか ── 』より。
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さっきapj氏のブログを見たら、同じようなことを書いてる人のブログを紹介していた。ちゃんと読んでないんだけど。
ま、皆さん同じようなことを考えるってことで。
突然食いたくなったものリスト:
本日のBGM:
Thinking of You /泰葉
というわけで、TI氏と登龍軒で酢豚を食った。
うまかったが、それが伝わったかどうかはわからん。
まあいい。私がうまいんだから、それでいい。(^O^)
TI氏は音大出身で、大学院まで行って研究していて、しかもピアノのプレイヤーで、自分でも教えているくらいなので、当たり前ながら音楽のことをよく知っている。
なんか、教えを受けるという感じでいろいろ話を聞かせてもらった。
話が面白くて、あっという間に時間が経った。
特に絵画史など美術史全体と音楽史の関連の話とか、音楽の構造の話とか、西洋と東洋の「芸術」認識の話とかが面白かったな。
ただ悔しいのは、私は音楽の素養があまりなくて、話に出てくる音楽家とその人の曲(多分聴いたら「あ、これ知ってる」と思うとは思うのだけれど)が頭の中でつながってないということ。
唯一わかったのはショパンの「革命」だが、しかしこれだって、『少女に何が起こったか』(主演:Kyon²)を見てて知ったに過ぎん。(^^;;;;
結局、歴史を用語レベルで認識してるに過ぎないんだよね、私の場合は。これが悔しい。
本日のBGM:
Citizens of Science /YELLOW MAGIC ORCHESTRA
某所で書いたことを、ここにも載せておこう。
ニセ科学を信じる人って、否定されると「夢がない」とか言うんだよね。「頭が固い」とか。あるいは「科学が全てじゃない」とか。
正統な科学の迫力とか凄さを全然解ってない。
徒花は確かに綺麗に映るけども、王道の奥深さに一度でも触れればそんなものは一瞬のものに過ぎないことに気づいて、取り込まれるようなことはないはずなんだ。
あんたらが思ってるほど、人類の英知はバカじゃない。
「死ぬ気で勉強したこと無いうちに「勉強なんて役に立たない」とか言わないでね」(雲和広)
ということですよ。知らないのに否定している。というか、知らないから否定したい。
「あなた、科学の何を知ってるってゆーのよ!?」
みたいな。(^O^)
(知ってたら「科学が全てじゃない」なんていう当たり前のことが反論になりようがないのがわかるはず)
彼らはきっと、「日常」のつまらなさの奧に「今の科学」を見ているんだと思う。(私はこれを不勉強ゆえだと思うけども)
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先日、北新地の青冥で中華をご馳走になった。
青冥は近所にもあって、それが全部同じチェーン店なのか知らないけども、場所柄か、自分が知ってる青冥と違ってやたら高級。
もちろんテーブルは回る。(^O^)
なんか高そうなのもたくさんあって、非常においしかった。
特に蒸し鶏はたまらんかったなあ。
ただ、
酢豚は登龍軒の方がうまいぞ~~~~!!
と思った。\(^O^)/
やっぱり酢豚は肉の柔らかさが命だね。
どうやれば肉が柔らかくなるのか私はよくわからないのだけども、高い安いの問題ではなく、職人の心構えの問題なのかもしれない。
というわけで、恋しくなってまた行ってしまった登龍軒。
本日のBGM:
Across The Universe /SCANNER
さいなら「手ぶり」、中部大阪商取で最後の取引
ニッケルなどの商品先物取引を扱う中部大阪商品取引所「大阪取引センター」(大阪市西区)で31日、国内で唯一残っていた「手ぶり」取引による最後の立ち会いが行われた。9月からコンピューター取引に移行するのに伴うもので、江戸時代から300年近く続いてきた取引風景が姿を消した。 手ぶりによる最終取引となった午後3時40分からのゴムの立ち会い(10分間)では、「場立ち」と呼ばれる商品先物会社の社員らが、独特の手サインで売買注文の合図を交わした。最後の取引が成立し、職員が「撃柝(げきたく)」と呼ばれる拍子木を鳴らすと、詰め掛けた市場関係者らが拍手で締めくくった。 木村文彦理事長は「一抹の寂しさは感じるが、今後も愛される取引所に向けてまい進したい」と述べた。大阪取引センターの職員は、会員業務や地元財界との連絡などを行う2人が残るだけとなる。 |
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