「大阪には橋がない」

 以前、「積ん読解消運動(3)『米朝よもやま噺』」というエントリで、同書のこういうくだりを引用した。

 大阪が水の都ということは、橋が多いということでね、「江戸八百八町」に対し、「大坂八百八橋」と言うた。小咄にあるんやけど、大阪にははしが無いと言うんです。みんなばしやからと。戎橋、天神橋、天満橋、淀屋橋……ほら、ばしですやろ。ところが、皮肉な人があって、大阪中を調べ回った。そんなら一つ、はしが見つかった。高津さんの境内にある「梅の橋」。見に行くと、小ちゃくて三足半で渡れるくらい。あとは、住吉さんの反橋そりはしぐらいかな。
 京都は逆に橋(はし)が多い。三条の大橋とか四条の大橋、五条の大橋……。大阪にも十三大橋がありますが、これは明治末にできたもんですからな(1932年に今の形に架け替えた)。
 昔、橋のクイズというのがあってね。例えば、「宮と宮との間にある橋は?」答えは京橋。桜ノ宮と森ノ宮との間にあるから。「向こう側へ渡れない橋は?」これは築港の桟橋なんや。渡ったら海にはまってしまうさかいな。
 昔の橋のクイズをもう一つ。「下に水が流れてない橋は?」。正解は阿倍野橋。交通のための橋やから。川が減った今では、あんまりおもろないな。

 
 今は「○○大橋」とかはみんな「はし」なんだけども、それはどこも、文中の十三大橋のように、明治以降に架けられた橋だ。
 神社の中の橋というのもかなり変則的。
 
 だからこの話はなるほどなあと思っていたのだけど、ふと思い当たった。
 
 「鶴橋(つるはし)」。
 
 これがあるじゃないの。
 
 鶴橋(鶴の橋)はかつて平野川に架かっていた橋。地名にもなっているし、JR、近鉄、地下鉄が乗り入れる大きな駅でもある。
 蛇行していた平野川は1940(昭和15)年にまっすぐに付け替えられたため旧平野川が埋め立てられ、その時に鶴の橋もなくなった。
 『日本書紀』には仁徳天皇14年冬11月に「猪甘津いかいのつに橋を渡す、すなわちこの処を名付けて小橋という」とある。この記述は日本で最初の架橋の記録だそうだ。
 江戸時代(1701年)の『摂陽群談』には、「鶴橋 東生郡東小橋村、平野川筋にあり。所伝にいう、昔此橋の辺に鶴多く集る事あり。それより以来、橋の号といへり。一説、猪甘津橋の古蹟といへり」とある。
 また、「津の橋」が訛って「鶴の橋」になったという説もある。
 
 つまり猪甘津橋いかいつのはし = 鶴橋 = 鶴の橋は江戸時代からあったと。
 
 また、鶴の橋と対にしたのか、同じ平野川の下流には亀の橋もあったそうだ。
 このあたりの話については写真付きで書かれているページがあった。⇒「大阪再発見! 鶴橋
 
 いずれにせよ、江戸時代から大阪にも「橋」を「はし」と読む橋が架かっていたことになる。まあもともとの話が小咄だし、さほど厳密に考える必要がないというのは解っているのだけどもね。
 
 あるいはひょっとして、このあたりは当時、「大坂」の範囲には入れてもらってなかったのかもしれない。
 
 その米朝が残した小咄「猪飼野」に「今はえらい賑やかなとこですけども、明治のはじめ頃までは一面の桑畑やったんやそぉで」(「米朝艶笑噺(二)」)とある。
 
 だからその存在も知られていなかった、あるいは知られていても数には入れられなかった……のかも。
 
 このあたりを、いずれ何かの間違いで米朝と話す機会ができたら聞いてみたいと思っていたのだけども、それももう叶わぬ夢となってしまった。

 このエントリを書く途中で見つけた論文(大阪経済大学の卒業生の卒論のようだ)が役に立ったので紹介しておく。
 
大阪城とその周辺の移り変わり
 
 これによると、俗に「大坂八百八橋」と言われるが、実際には200程の橋があったそうだ。

 せっかく橋の話が出たので、昔読んだ本(松村博『八百八橋物語』)にあった、橋についての興味深い話を紹介しておこう。「興味深い」と書いたが、どのくらいの人がこれを興味深いと感じるかはよくわからない。(^^;;
 かつて橋といえば当然木製で、耐久年数は非常に短かった。これを誰が掛け替え・補修・維持するのかという話。
 

心斎橋架換工事

 心斎橋は初めて架設されて以来、町橋としてその橋筋の町々の力によって維持されてきた。木橋であるため、ただでさえ耐用年数が短いのに、洪水や火災の被害も加わったとするとかなり頻繁に架換えや補修工事が行われねばならなかったであろう。このような工事内容は政治的な事件とは違って記録に残りにくいものである。貴重にも残された「菊屋町文書」の中には心斎橋の修履工事の記録が享保九年から慶応三年までに六編ある。しかし、これが総てではないであろう。
 架換えに当っては橋詰の両町(四つ角)を始め橋筋の町の人々の手で全てことが運ばれていることが注目される。
 橋が老朽化して架換える必要が生じてくるとまず、橋詰めの四つ角の人々が集まって架換工事についての提案を行う、工事概算額を見積もり、費用負担についての相談をする。そして、橋掛り町の町年寄を集めて工事を行うことを決定する。奉行所の許可を得て、入札によって工事請負人を決定する。享和二年の場合は材料は別途購入し、請負人に支給している。そして大工、石工等工種によって細かく分割して契約を行っている。これに対して元文四年の場合のように工事一式を入札に付すこともありその時の世話役の判断によって一括請負にするかどうかを決めていたのであろうか。
 工事期間は元文四年の場合三五日であることから、約一ケ月という短い期間であったと考えてもよい。この間は通行止めをし、その予告かんばんも用意したようで、工事延期の場合も一般に知らせている。工事中は日頃町内の事務やいろいろの作業をしている町代、下役人足が工事場を巡視した。すなわち工事監督を行ったようで、特別の心付けを出している。
 工事が完成すると盛大な渡初めを行った。町内には紅白の餅などが配られたのであろう。また作業を行った大工・石工、工事監督の町代・下役へは祝儀がはずまれた。最後に町年寄の寄合いをもって、決算報告が行われ、費用が橋掛り町それぞれに割り当てられる。また旧橋を撤去した時発生した木材等は売却し、その費用も工事費に流用されている。
 江戸時代の心斎橋はごく普通の木橋であったが、その架設費は生活感覚からみて現在の価格で五千万円にも相当するのであろうか。これを二十町ばかりで負担するのは大変な出費であったと思われる。時代が下るに従って町橋の管理状態が悪くなるのはやむをえないことであった。
 また祝儀・礼金と寄合費が合わせて七%以上もあり、かなり大きな額になっている。町橋は架設のために近隣の人々が寄り集まって協力しあった結果であるといえる。しかし日本人の寄り合い好きは昔も今も変わらないようである。
 町橋の維持管理費は、管理責任を負っている橋元町と費用負担を義務づけられている近傍の町とで分担することになっていた。この近傍の町を橋掛り町といった。心斎橋ではその費用は橋詰の二つの町で五十%を持ち、残りを橋に近い町から順番に十%ずつ等比級数的に逓減しながら割り付けられることになっていた。
 橋掛り町への割り付け計算は等比級数の取り扱いをしなければならないため、かなり面倒なものである。
 どうやら計算に秀でた人に頼んで答えを出してもらったらしい。享和二年の割方帳に「入用割方算者へ礼物-八匁六分」とあるのは分担額を計算してもらった人への礼の意味にとれる。八匁六分は当時の労働者四人分の賃金に相当し、けっこう高いものについている。
 菊屋町内では各家に割り当てるにあたっては南北二つに分け、費用は逆に北の万が一割多く負担するよう取り決めをしていたらしい。このように橋掛り町の費用分担は長い間の試行錯誤を通じ、その橋々で、その町に応じて最も合理的で平等な方法が考えられていったようである。

 

 橋といえば実はもう1つ、紹介したい本があった。
 堀井敏夫『パリ史の裏通り』。
 
 堀井先生については何度か書いたことがあるが、私の尊敬する先生だ。
 このエッセイ集には、パリの橋の話が出てくる。橋に住む人や橋の上で商売をする人の話など。
 ここで紹介したかったのだが、本が見あたらない。><
 非常に残念なのだが、その「残念」という気持ちを表明しておく。(^O^)

突然食いたくなったものリスト:

  • 芋きんつば

本日のBGM:
Bridge Over Troubled Water /Simon & Garfunkel





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