『なぜ人はエイリアンに誘拐されたと思うのか』


『なぜ人はエイリアンに誘拐されたと思うのか』
スーザン・A.クランシー著
早川書房 (2006/08)

 えらい面白い本だった。(^O^)


 著者の心理学者スーザン・A・クランシーは「偽りの記憶」を研究していた。人は忘れてしまった記憶を何らかの方法で「回復」することがある。果たしてその記憶は実際にあったことだろうか。ひょっとしてそれは「回復」の過程で作り上げられた偽りの記憶かもしれない。
 著者はこの研究の対象に、「幼児期に受けた性的虐待の記憶」を持つ人たちを選んだ。
 しかしこのことは非常に厄介な問題を引き起こした。
 
 当時アメリカではこの問題は大きくなっていて、つまり性的虐待を受けた記憶を取り戻した女性の証言により、起訴されたり投獄された人もいる。被害者の支援グループも組織された。
 そんな中でのこの研究は、あたかも「被害者」たちが嘘を言っている、その証明のための研究である……と非難されたのだった。
 つまり、科学的……ではなく政治的な研究であると。
 
 それにウンザリした著者は研究の対象を「エイリアンに誘拐されたという記憶を持つ人」に変えた。
 これならそういった批判はまず起こらない。(^^;
 「エイリアンに誘拐されたという記憶を持つ人」は全米にはかなり多くの人がいる。著者は研究対象を集めるために、「エイリアンに誘拐されたことのある人募集」とのストレートな広告を出したという。
 
 そこでこの興味深い研究が生まれたわけだが、この「きっかけ」は(冒頭に少ししか書かれていないが)非常に重要だ。本書で語られる話はただ「アブダクション(エイリアンによる誘拐)」のみにとどまらず、もちろん「幼児期の性的虐待」を初めとした「回復された記憶」すべてにわたり当てはめられるべき研究だということを忘れてはいけないだろう。
 
 本書では「記憶」が歪められる研究はもちろん、北米でのエイリアン、UFOを巡る情報が流布された歴史が紹介され、そして圧巻なのは著者が数多く行なった「アブダクティー(宇宙人に誘拐された[と思っている]人)」のインタビュー。
 それまで自分がどういう人間だったか、エイリアンに誘拐された時の描写、そこからの自分の反応、そして今……と、アブダクティーたちの告白は生々しい。
 しかしその「体験」は非常に類型的でもある。
 著者は「アブダクティーが他の人たちとちがうのは、彼らが奇妙だと思っている体験のせいでも、その原因を説明しようとする欲求のせいでもなく、この特定の説明を選んだせいである」という。そしてこう続ける。
 

なぜ、睡眠麻痺の体験や、夜中に遠くまでドライブしたくなる衝動や、体の奇妙な痣が、地球外生物によるものだと信じるようになるのだろう?
 なぜなら、彼らの症状や感覚や体験は、アブダクションについてすでに知っていること ── というよりは”知っていると思っている”こと ── と一致するからだ。現在のアメリカでは、エイリアンがどんな姿をしていて、誘拐した人間にどんなことをすると言われているかについて、知らない人はほとんどいない。一九六〇年代以降、アブダクションの話はいたるところで聞かれるようになっている。

 
 北米では映画、文学その他でエイリアンによるアブダクションの物語が多く語られ、国民に共通の「物語」として共有されている。
 そして「現実にエイリアンに誘拐された」と考える人が圧倒的に多いのも、北米だ。
 
 もちろん筆者はかれらの「体験」の現実性を信じてはいない。だからこそこのタイトルにもなる。
 しかし彼女は、アブダクティーたちを「おかしな人」としては扱っていない。
 

 かつてカール・セーガンは、科学を正しく理解していない人ほど、疑似科学を受け入れやすいと言った。わたしは彼の意見に賛成して、この研究プロジェクトをはじめた ── だがいまは、失礼ながら同意できない。アブダクティーはわたしに、人間はいろいろな信念体系を試しながら生きているということを教えてくれた。これらの信念体系のいくつかは、科学とはほとんど関係ないような強烈な感情の欲求 ── 社会の中で孤立したくない欲求や、特別な権力や能力を持ちたいという願望や、宇宙に自分より大きな存在かいて自分を見守っていてほしいという望みなど ── に訴えかける。アブダクションの信じ込みは、ただの悪しき科学[バッド・サイエンス]ではない。不幸を説明したり、個人的な問題の責任を回避したりするためだけのものでもない。アブダクションを信じることによって、多くの人が精神的な渇望を満たしているのだ。宇宙のなかに自分の居場所があることや、自分は大切な存在であることを教え、安らぎをあたえてくれるものなのである。
 すこしのあいだ人類学者になったつもりで、こういう信じ込みがどのように作用するのかを調べてみると、実際にはまったく科学とは関係ないことがわかる。だが、だからといって擬似科学というレッテルを貼るのではなく、懐疑的な態度(科学の基本理念)のひとつの形であると考えようではないか。これらは、従来の価値や見方に対する不満 ── ありのままを受け入れることへの拒絶 ── から生まれるのだ。実際に、信じ込みの歴史的・社会的・文化的な背景を考えてみると、非合理主義の方向に向いているというよりも、人々が葛藤や願望や欲求を訴えるときの、ひとつの表現方法であると言えそうだ。

 
 私は本を読む時に、興味深いと思ったところ(要点ではなく)に付箋を貼っておいて、できればOCRしてメモとして残しておくのだが、この本は付箋ばかりになってしまった。(^^;
 この本は図書館で借りた本だったので返さなくちゃいけない。これはとてもOCRしてられないってことで(^^;、結局Amazonでポチってしまった(『なぜ人はエイリアンに誘拐されたと思うのか』)。
 というくらい興味深い内容だった。面白かったなあ。
 
 メモしたところはまたエントリを改めて紹介したい。(これ。⇒「『なぜ人はエイリアンに誘拐されたと思うのか』より」)
 このエントリよりそっちの方が面白いと思う。(^^;;
 
 本書を著者はこう結ぶ。
 アブダクションは現代の宗教であると。
 

 アブダクションを信じることによって得られるものは、世界じゅうの多くの人たちが宗教から得ているものとおなじであるのは明らかだ。人生の意義、安心、神の啓示、精神性、新しい自分。正直言って、わたしもいくらかほしいと思うものもある。アブダクションの信奉は、事実ではなく信仰にもとづいた宗教の教義のひとつだと考えることができそうだ。実際、多くの科学的なデータが、ビリーバーは心理的な恩恵を受けていることを示している。彼らは、そういうものを信じていない人より、幸せで健康で人生に希望を持っている。わたしたちは、科学や技術が幅をきかせ、伝統的な宗教が批判される時代に生きている。天使や神に宇宙服を着せ、エイリアンとして登場させたら納得がいくのではないだろうか?
 わたしたちは、スピリチュアリズムや、心の平穏や、不思議な力や、人生の意義を求めている。ベルトルト・ブレヒトが戯曲『ガリレイの生涯』のなかで語ったように、「わたしたちを主人公にした大宇宙という名の劇が書かれていて……こんなつまらない星のあわれな役よりもっとすばらしい役が用意されているのだと励ましてくれる」なにかが必要なのだ。エイリアンによる誘拐は、科学技術の時代における新しい宗教への洗礼なのかもしれない。

 

突然食いたくなったものリスト:

  • うなぎ

本日のBGM:
ティアドロップ探偵団 /イモ欽トリオ


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