そんなんとちゃうねんきっと

 数日前に某所に書いたことにちょっと加筆してこちらにも上げておきます。
 ある記事について。
加藤和彦さん”遺書”の波紋…「売ろうとかいう呪縛」
http://www.zakzak.co.jp/entertainment/movie_music/news/20091021/mov0910211622001-n2.htm
 

 加藤さんは、2000年代に入って音楽的葛藤と闘っていたようだ。02年に期間限定でフォークルを結成したときの思いを音楽ジャーナリストの湯浅明氏が振り返る。

 「長いこと音楽をやっていると、聞かせようとか、売ろうとかいう呪縛が無意識にある。フォークルの名をつかうと、楽しみながら好きなものを作れる-ということでした。ヒットメーカー、プロデューサーとしての重責。売るということのプレッシャーを常に感じていたのだと思う」

 
 「プロデューサーとしての重責」「売るということのプレッシャー」か……。
 でも、そうかなあ。
 木村カエラを迎えて SADISTIC MIKAELA BAND として出した『NARKISSOS』というアルバムについて、私は以下のようなレビューを書いた。
 

 ミカバンド久々の新作は良くも悪くもミカバンドそのまんま。

 オッサンら好き勝手にやってるってところがね。(^^;

 加藤ミカの時も、桐島かれんの時もそうだったが、フロントにいる(はずの)女性をあんまり大事にしてないというか、コーラスすらさせない曲がありまくり。

 加藤ミカの時はともかく、一度解散して10年も30年もすれば、それぞれ音楽的にやりたいことをだいたいやっていてそれほど不満もないだろうに。普通、ここまでキャリアを積んだ人たちが集まると妙に落ち着いちゃって、メンバーみんながプロデューサーみたいにこの素材(桐島かれんや木村カエラ)をどう料理するかというような視点になると思うのよね。
 ところがこのオッサンたちは、自分たちが好きな音楽を作るのに夢中で、横にいる女の子のことに全然興味ないのよね、あるフリはしてるけど。(^^;

 まったく大したものだ。
 枯れてないというかまだまだやったるでというか。

 再結成モノによくある「懐かしの同窓会」的作品でなかったことがうれしい。

 ただ、これまでのミカバンドの作品に比べてどうかと言われれば……、うーん……。

 
 このアルバムなんか、もしも売ろうと思ったらもっと木村カエラを前面に出した曲作りをしていたはずだ。実際、他の人、特に若い世代のレビューを見ると木村カエラを期待したのにガッカリしたというものが多かった。
 しかしそれをしなかった彼には、「そういうのはほっといて、とにかく自分たちが楽しもう!」という意識は見えても、死を選ぶほどの「売るということのプレッシャー」を見出すことはできないよ。
 

 「世の中が音楽を必要としなくなり、もう創作の意欲もなくなった。死にたいというより、消えてしまいたい」

 自殺した音楽プロデューサー、加藤和彦さん(享年62)が遺書で綴った、この重たい言葉が音楽関係者に波紋を広げている。

(略)

 いつも通り飄々としていたが、富澤氏は加藤さんの胸の内をこう推測する。

 「加藤さんは今の音楽は話にならない、と考え”和幸(かずこう)”で楽曲を世に出した。けれど今の人たちに響かず、失望をしたんじゃないだろうか」

 
 きっと、そんなところからたぐり寄せてもダメなんだ……。
 加藤和彦は、1984年のインタビューでもこんなことを言ってる。
「そもそも音楽をあまり必要としてない人たちに売ってるんだものな、ぼくらなんて。つらいこともあるよ」
 だからもう25年以上、彼の認識は変わってない。彼は少なくとも日本の状況についてずっとこう認識していて、これは彼にとっては前提条件だったはずだ。それだけのこと。
 だからむしろ、
「もう創作の意欲もなくなった。死にたいというより、消えてしまいたい」
 という部分、そして彼が鬱だったというところにこそ、死の真実はあるのだと思う。
 でもそれを推測することは無意味。
 ただ、彼は別に音楽に絶望や失望をしたんじゃないのだと思う。これは推測じゃなく、願望だけども。


 鬱だった人の遺書をそのまんま真に受けても仕方がないんだと思う。

「加藤さんは今の音楽は話にならない、と考え”和幸(かずこう)”で楽曲を世に出した。けれど今の人たちに響かず、失望をしたんじゃないだろうか」
 と言った音楽評論家・富澤一誠氏。この人、こんな推測するようになったのか……という、こちらでもちょっとしたがっかり感を味わった。
 私はかなり若い頃にこの人の『俺の井上陽水』『あいつの切り札』という本を読んでるんだけど、そうか、この人が……と、ほんとにがっかり。いやむしろ、ある意味この人らしいのかもしれないなあ。

 

☆ クリエイティブにノスタルジーなし。

── 近田春夫『考えるヒット』より。

 


突然食いたくなったものリスト:

  • チヂミ

本日のBGM:
墨絵の国へ /SADISTIC MIKA BAND






9 個のコメント

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    • zorori on 2009年10月25日 at 8:32 AM

    おはようございます。
    >そして彼が鬱だったというところにこそ、死の真実はあるのだと思う。
    同感です。
    長い人生で考えてきたことと繋がりのある自殺もあるかもしれませんが、そんなこととはなんの関係もない、ものの弾みのような自殺もあるかもしれません。
    私自身は自殺なんて馬鹿らしいと思っていますが、5分後に自殺する可能性もあるわけです。
    なんというか、不可解な自殺の意味を詮索しても仕方無いという気がします。誰が考えても自殺したくなるような状況だとしたら、真剣な問題ですが。

    • うさぎ林檎 on 2009年10月25日 at 9:14 AM

    おはようございます。
    うつ病だったそうですから”自殺”が病状と無関係であったとは思いません。でも彼と親しい方は逆にそのことを受け入れられないのではないかと思います。無意味な死では辛すぎて、意味のある死だと思いたいのではないでしょうか。
    >鬱だった人の遺書をそのまんま真に受けても仕方がないんだと思う。
    私は鬱が一番酷い時は自分が発狂するのではないかと思いました。自殺しても不思議ではありませんでした。
    でもまだこうして生きています。
    うつ病だからと言って、自殺が防ぐことが出来ないわけではない。止めることが出来なかったことを認めるのは辛いことです。

    • pooh on 2009年10月25日 at 10:36 PM

    音楽そのものに絶望するようなひとではなかったと思います(音楽を囲む状況、と云うのをどう感じていたか、は別にして)。
    うちの国の音楽と云うカルチュア、と云うのを語ろうとすると、少なくとも1ページは持っていくひとなのはまちがいないです。でも、そのひとの自死をなにかしら自分の語りたいことにひきつけて意味づけする、と云うのはどうなのかな、とも感じます。

    • hietaro on 2009年10月26日 at 1:22 AM

    >zororiさん
    >うさぎ林檎さん
    >poohさん
     
    >なんというか、不可解な自殺の意味を詮索しても仕方無いという気がします。
     
    そうなんです、きっと。いや、詮索してしまいたくなる気持ちはとてもよく判るし、それまさにうさぎ林檎さんの言う
     
    >無意味な死では辛すぎて、意味のある死だと思いたいのではないでしょうか。
     
    という部分、残された者の、「死」との折り合いのつけ方なんだろうと思います。だからこれは死者ではなく、残された者の領分です。ただ、この記事に関しては、poohさんの言う
     
    >そのひとの自死をなにかしら自分の語りたいことにひきつけて意味づけする、と云うのはどうなのかな
     
    という引っかかりを感じちゃったんですね。
     
    私自身、うさぎ林檎さんほど強くはないにせよ、そういう体験がありますし、その時を思い出すと、加藤和彦の遺書にある
     
    「死にたいというより、消えてしまいたい」
     
    という一節は、感覚として非常によく理解できます。
    もちろんこれも自分の体験にたぐりよせて理解しているだけなのですが、そういう視点に立てば、
     
    「加藤さんは今の音楽は話にならない、と考え”和幸(かずこう)”で楽曲を世に出した。けれど今の人たちに響かず、失望をしたんじゃないだろうか」
     
    という推測は、まさに
     
    >そのひとの自死をなにかしら自分の語りたいことにひきつけて意味づけする
     
    行為にしか見えないんですよ。そんなもののはずがないだろうと。今考えれば富澤氏の『俺の井上陽水』(1975)は、まさに井上陽水にかこつけた自分語りの書だったわけで、この方にとってそういうクセはむしろ評論家としてのアイデンティティに関わる部分であるようにも思うのですが、これはあまりにひどい引き寄せ方ではないかと。
     
    >うつ病だからと言って、自殺が防ぐことが出来ないわけではない。止めることが出来なかったことを認めるのは辛いことです。
     
    残された者は本当にこの部分が辛いですね。

  1. 私のブログ内でコメントのやり取りで記したことですが、
    「これまでに自分は数多くの音楽作品を残してきた。だが、今の世の中には本当に音楽が必要なのだろうか。『死にたい』というより『生きていたくない』。消えたい。」との遺書らしいですが、
    <本当に必要なもの>と云うことを考えると、人間が世事でやっていること(仕事、芸術活動共)で、<今の世の中に、本当に必要なもの>など無いかも知れません。
    今の世の中を考え、<本当に必要なもの>を考え出すと、自問自答が繰り返され、真の回答は出ないと思います。
    「欝病」の典型かも知れません・・・。(経験者の言葉・・・。)
    「欝病」は、このような泥沼にはまり、(無限地獄で)抜け出せなくなります。
    一人、自問自答で解決しようとせず、友人にちょこっとでも、相談すれば、問いの「靄」は、晴れたかも知れません・・・。
    真の「心の友」は、本当に必要だと思います。

    • hietaro on 2009年10月26日 at 11:19 AM

    >moharizaさん
    >真の「心の友」は、本当に必要だと思います。
     
    ほんと、難しいですよね。
    個人的な体験からすれば、そういう時はそういう友人すら遠ざけたような気がしますし、(あとで考えれば)本当に心配してくれてこちらのことを考えてくれているのに、ただただ「煩わしい」と思えてしまいます。そして、そういう気持ちが一応はわかるがゆえに、「死にたい」ではなく「消えてしまいたい」と感じてしまったり。
     
    しかしもし幸運にも?そういう友に一言でも何かを発することができたら、状況は大きく変わるのかもしれません。

    • うさぎ林檎 on 2009年10月26日 at 3:27 PM

    こんにちは。
    >しかしもし幸運にも?そういう友に一言でも何かを発することができたら、
    >状況は大きく変わるのかもしれません。
    うつ病先進国(変な表現)のイギリスでは、カウンセリングの基本である傾聴から一歩進んで、患者のプライバシーにまで踏み込んだカウンセリングで効果を上げているという報道を見たことがあります。
    何が辛いのか苦しいのかについて本人に自覚を促すことで症状が改善する人が結構いるのだそうです。カウンセリング後進国の日本では当分難しそうですが、人と会話をする中で問題を明確にするのは有効な気がします。
    >そのひとの自死をなにかしら自分の語りたいことにひきつけて意味づけする
    そうですね。死にせよ他の問題にせよ、それを自分に引き寄せて理解しようとする人は、結局のところ相手に興味がないのかもしれません。
    とはいえ、歩み寄っても判らないことは判らないんでしょうね、本人にだって本当の理由は判っていないかもしれないんですから。

  2. こんちわ。
    朝日新聞に寄せられた、北山修氏による追悼コメントをアップしていた人がいました。
    http://blogs.yahoo.co.jp/miwako_uchigasaki/62443963.html
    ぼくはこれを掲載された日に紙面で読んだのですが、いまだに精神科医である北山がこういうコメントを出したことに、釈然としないでいます。そんなこと言ってもしょうがないんだけど。
    ついででなんなのですが、ふと気付いたらこちらのRSSがちゃんと動くようになっているみたいなので、下記の勝手RSSは削除しますね。
    http://myrss.jp/rdf/r4a6d4d6dcebd89887.rdf?v10

    • hietaro on 2009年10月30日 at 1:52 AM

    >亀@渋研Xさん
     
    うーん、難しいですね。ほんと。
    いろんなパターンがあると思うんですが、鬱の1つのパターンとして、周りも、そして本人さえもそれを「鬱」だと考えていないということがあると思うんです。
    そういう場合、医師は無力ですよね。
    むうう。
     
    >RSS
     
    ありがとうございました。m(_ _)m m(_ _)m

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